阿波の国(発心の道場)

あ わ      ほっしん     

第一番札所霊山寺から第二十三番札所薬王寺

(写真109枚)

 

阿波の国札所(「四国八十八ヶ所詳細図帖」:雑誌四国発行より)

 

       丸数字をクリックするとその段落へ行きます。

@

 第一番札所霊山寺から第七番札所十楽寺  2007211日(日)
A  第八番札所熊谷寺から第十一番札所藤井寺    2007212日(月、祝)
B  玖珂町から鴨の湯    2007224日(土)
C   第十一番札所藤井寺から第十二番札所焼山寺    2007225日(日)
D   第十三番札所大栗山大日寺から

 第十五番札所国分寺  

 2007年3月21日 (水、祝)

E  JR五日市からJR府中(こう)    20073月31日(土)

F

  第十六番札所光耀山観音寺から

 第十九番札所立江寺

  20074月1日(日)
G  JR五日市駅からJR立江駅  20074月7日(土)
H  第十九番札所立江寺から第二十札所平等   20074月8日(日)
I  二十二番札所平等寺から第二十三札所薬王寺  20074月15日(日)
J  JR日和佐(ひわさ)駅から室戸岬へ  2007年9月16日〜17日

  2007年2月に藤井寺の手前でデジカメを落としてしまいました。阿波の国の写真の大半は

2008年9月からはじめた車による第二回の巡拝時の写真です。

 これからも、写真を追加しますので、ご期待ください。

 

 @ 第一番札所霊山寺(りょうぜんじ)から

               第七番札所十楽寺(じゅうらくじ) 2007211日(日)  

  朝520分、重いリュックを背負い玄関を出て、自転車でまだ真っ暗な道にライトを頼りに乗り出しました。心は新しいことをする緊張感とやっと願いがかなった喜びと半々。昨日散髪屋で丸めた頭(スポーツ刈り)があたる風にやや寒いのが難。出発までに防水の靴スニーカー代約9000円と登山用リュックサック代約13000円も含めて準備費用は約4万円。

 五日市駅のプラットホームでコンビニで買ったおにぎり2個とポカリスエットで朝食。肉類や酒類はお遍路中は取らない方針。高松からの特急の指定席は駅員に任せておいたら、なんと一番前。列車の中で、長袖の白装束の上着(袖なしも用意)をはおり、頭陀(ずだ)袋と輪袈裟(わげさ)を首にかけるとまさに馬子にも衣装、一人前の修行者の気分。たったひとりで、一番前のドアーから畑の中のプラットホームに下りてぽかんとしていると、運転手が「切符をください」と言います。なんとここは無人駅なのです。前がよく見えるように粋(いき)な計らいで一番前の席なのかと思ったら、大きなリュックを背負って、一番前の運転手の所に行って切符を渡さなければならないからでした。 五日市駅を6時前に始発で出発し、約4時間後10時前にJR板東駅に到着。

JR板東駅

 

 賑やかな所だろう期待したのに、日曜ということもあり店は一軒も開いてなく寂しく、第一番札所霊山寺(りょうぜんじ)までの間約500メートル、4〜5人しか人に会いませんでした。北のほう、県道2号線の北側に売店らしき大きな建物が見え、広い駐車場には車が次々に到着し、「南無大師遍照金剛、同行二人」と背中に書いてあるお遍路用の白装束(しろしょうぞく)の上着を着た人達が車の誘導をしていました。売店に入ると、菅笠(すげがさ)と本尊御影(ほんぞんおすがた)帳と金剛(こんごう)杖を合計6800円で買って、人でごったがえした店を逃げるように出ました。

 (注:霊山寺の名の由来:釈迦が多くの説法を行い、多くの僧が修行していた所がマガダ国の霊鷲山【りょうじゅせん】。空海がその場を連想し、ここに天竺の霊山を移す意味で、霊山寺と名づけられた。)

  (注:南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)とは、弘法大師に帰依(きえ)しますという意味で、遍照金剛とは空海の別名で、同行二人とは弘法大師と共に巡礼しますと言うです。)

 菅笠にも同行二人などと書いてあり、雨の時でもいいように丈夫なビニールがかぶせてあります。本尊御影(おすがた)帳には、各お寺でもらえる姿絵(本堂の奥のほうに収めてあり、拝見出来ないことが多い本尊のスケッチ)が印刷された5掛け7cmぐらいの紙切れを収めるのですが、各寺の一番特徴のある建物の写真も載っていて、錦模様のきれいな布地の表紙で、3000円もするけどその価値はあります。金剛杖にも南無大師遍照金剛、同行二人と書いてあり、お大師様の身代わりなので、遍路の必需品で大切に扱わなければならないとか。金剛杖は杉の白木で、思ったより軽く安物っぽい感じ。ここの売店では約7000円の出費。広島の仏具店で買ったものと合わせる遍路用品代は計約2万3千円也。

 いよいよ巡礼の開始。まず霊験のありそうな威厳のある山門の前で深く一礼。

霊山寺山門

 

  境内に入るとすぐ右手に、綺麗な縁むすび観音が。私には関係ないけど、次男には・・・

縁むすび観音

 

  少し進むと立派な多宝塔。当時の領主が権力の象徴として寺に奉納したものだそうです。上層は円形で、下層は方形で、美しい塔です。

 

霊山寺多宝塔

 

 水屋で手を洗い、口をすすぎ、柄杓から水を少し飲みました(これは間違いで、手のひらに水をうけて飲むのが正しい)。礼拝手順は「四国八十八ヶ所」(主婦の友社発行、溝縁ひろし著)を何度も読んだのですが、なかなか完全に覚えるのは大変です。広い本堂に入ると天井には少しユーモラスな表情をした龍が。柱には画:東画伯の札がありました。

霊山寺天井画

 

  本堂の中では、お坊さんが初めてのお遍路さんのための、遍路の心得を話しておられました。

霊山寺本堂内

 

 本尊は秘仏で厨子に納められてみれませんが、その代わりに、その前に前立ち仏が安置されています。

 

 

 

 本堂の前で、ローソクと線香3本に火をつけて立て、白い納札(これには年月吉日と住所と願意と名前と年令を書き入れ)を納札箱に入れ、お賽銭を100円投げ入れ(あとで聞いたのですが、投げ入れては失礼なのでいけなくて、静かに収めるべきでした)、読経(どきょう)を開始。初めての、我流の読経なので、ドキドキです。読経の手順は

@ 「うやうやしく御仏を礼拝したてまつる」と一礼     

A    開経偈(かいきょうげ):「無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう) 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義」(無上の奥深い教えは遭遇しがたい・・・)

 B 般若心経(はんにゃしんぎょう):「摩訶般若波羅密多心経(まかはんやはらみつたしんぎょう) 観自在菩薩 ・・・ 」

C     本尊真言:「のうまく さんまんだ ぼだなんぼく」(第一番札所霊山寺の御本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)なので、こう唱えます。本尊様への呼びかけ。)と3

D   光明真言:「おん あぼきゃべいろうしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」と3

E「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と3回唱え礼拝

F 回向文(えこうもん):「願わくばこの功徳(くどく)をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生(しゅうじょう)と、皆共に仏道(ぶつどう)を成(じょう)ぜん」

G 「有難うございます」

  (以上「四国八十八ヶ所」:主婦の友社:荷に載っていたものです。)

 まだ暗記していないので、経本を読みながらたどたどしく、小声で唱え終えほっと。持鈴(じれい)も読経のまえに2回、経文、真言のあとに1回、経文終了時に2回するつもりでしたが、時々抜かしたりしながらチリン、チリンもはさみながら。

 次は本堂の右側にある大師堂(だいしどう)への参拝。大師堂は真四角で少し小さい建物。大師堂でもローソクと線香3本を立て、納札を入れ、本尊真言のみ省いて、同様に読経をしました。綺麗な庭の大きな池には見事な錦鯉が沢山泳いでいました。

霊山寺大師堂

 

 そして納経(のうきょう)所で納経帳に奉納、釈尊、霊山寺、とさらさらと書いて、3種類の印鑑を押してもらいました。納経の代金は何処のお寺でも300円です。

納経帳(これは2巡目なので、重ね印がされています。)

『二巡目は破れすげがさ炎天下』

 

 

 納経帖と一緒にご本尊御影(おすがた)という、トランプぐらいの大きさの印刷物をもらいました。

本尊御影(ほんぞんおすがた): 阿弥陀如来(あみだにょらい)

 

 そして門を出て、くるりと回って本堂に向かって一礼。

 

 (2008年9月、お礼参りに行った時、納経所で、お福分けという黒檀の数珠を頂きました。

これは、日頃お世話になっている人へのお土産だそうです。)

お福分け:黒檀の数珠

 

 2巡目の前に、インターネットで 掛け軸用の四国霊場十三仏来迎図(定価19000円)を買いました。販売店はさぬき市の「詠智会」(電話:0120-459882)です。各県ごとに、この図にあるご本尊を祀った3〜4寺で納経することになっています。霊山寺のご本尊は阿弥陀如来なので、そこの枠に書字と朱印をもらいました。(掛け軸は高いので、まだ買っていません)たしかに、ご来迎をこのように想像することは心の安らぎになると思います。

四国霊場十三仏来迎図

 

   『早春の頭すずしき霊山寺

 

 第一番札所霊山寺(りょうぜんじ)から第二番札所極楽寺まではたったの西へ1.4km。さあ、次は2番目の札所極楽寺(ごくらくじ)に、菅笠をかぶり金剛杖手に、まぶしいくらい明るいコンクリートの国道に繰り出します。霊山寺でもらった地図が解りやすく、これを見ながら。この地図「おへんろさんの道しるべ」はA3版の紺色のインクで印刷してあり、御所温泉の広告を兼ねたもの。金剛杖は元気なとき速く歩くにはむしろ邪魔で、水平に握って歩きます。(門の前に立っている方は私ではありません。知らない人がたまたま立っておられただけです。)

極楽寺山門

 

 あっという間に着き、門をくぐると、お大師さんお手植えと言われる巨大な長命杉が眼前に突然現れ、上を仰いでも広い枝が邪魔しててっぺんが見えず、圧倒されます。

長命杉

 

 触れると長寿をさずかるそうで、乳房のような膨らみをみんなが触るのでツルツル。私も手を伸ばしそっと。

長命杉下部

 

 (注:長命杉は樹齢1100年以上で、高さは30メートル以上で、幹の周りは6m〜7mあるそうです。鳴門市の天然記念物。)

 境内には白い雲を連想させる枯山水の、弁天さんを祀った雲海浄土のお庭。

弁天さんを祀った庭

 第二番札所極楽寺から第三番札所金泉寺(こんせんじ)までは2.6km。国道に沿ってまっすぐに西に。途中、畑の畦道(あぜみち)の入り口に「へんろ道、金泉寺へ、」とある小さな立て札が見つかりました。地図にもないその細い畦道を進むと、金泉寺への境内への近道でした。

金泉寺手前の丁石

 

 きれいなお庭の真ん中の石の太鼓橋を踏みしめ一度山門を出ました。

金泉寺山門

 

  庭には弁慶が持ち上げたという力石がありましたが、以外と小さいので見落として、納経所の人に場所を教えてもらいました。

弁慶が持ち上げたという力石

 

  行基上人が井戸より霊水の出るさまをみて、ここにお堂を建てて、名を金泉寺としたということです。この井戸を覗いて、顔が映れば92歳は生きれ、映らないと3日以内に不幸がおきるそうです。

黄金地蔵尊と黄金井

井戸を覗き込む人

 

  (注:札所の開基について:1番から3番札所まで行基の開基と本に載っています。四国88札所のほとんどは空海が開基したものだと思っていたので、まず驚きです。数えてみたら、行基は88札所のうち、29寺を開基し、 空海は42寺を開基したことになっていました。多くのお寺は行基が開基し、そのうち廃寺となったお寺を空海が再興したものも多いそうです。) 

 (注:行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668年〜749年)は奈良時代の僧である。 父は百済系渡来人氏族の末裔一族の高志才智とされる。河内国大鳥郡(現在の堺市)の生まれ。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業に活動した。民衆を煽動する人物であり寺外の活動が「僧尼令」に違反するとし、糾弾されて弾圧を受けた。741年月に聖武天皇が行基と会見し、東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果大きく745年に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。大仏造営中の81歳で入滅。)  

 第三番札所金泉寺(こんせんじ)から第四番札所黒巌山大日寺(こくがんざんだいにちじ)(大日寺は88ヶ所のうち3寺あるので、ここで区別するため山号もつけます)までは西北へ5kmと少し長い。単調な道を西に向かって歩きながら、間違っていないかと不安になっていると、初めて別のお遍路さんに追いつきました。その中年の小柄な女性に「この道は4番にいく道ですね」と訊くと。「はい、以前にこの順路はきた道で知っています。けど、納経帳を持ってなかったので、今回はきちんと納経帳を持って回ってるんですよ、お遍路のためにと思って、前からよく歩いてるんですよ」と。私は「急ぎますので、お先に」と言って足の回転数を上げました。

黒巌山大日寺山門

 

  本堂の中にご本尊が見えたので、写真を撮りましたが、ガラス越しなのでぼけてしましました。これは新しい仏像のようなので、本物はその奥でしょう。

黒巌山大日寺本尊:大日如来

 

  黒巌山大日寺の境内は花が多く、特に蓮の花が綺麗でした。

黒巌山大日寺の境内

 

 (注:大日寺のご本尊は大日如来といい、空海の開いた真言宗において、最も重要な仏。弘法大師(空海)によると、「あらゆる宗教における神や悪魔は、すべて大日如来の顕現であり、大日如来の身体は宇宙そのものである。同時に、1粒の微塵の中にも大日如来は存在する。」)  

 第四番札所大日寺(だいにちじ)から第五番札所地蔵寺(じぞうじ)まではまっすぐ南への下り坂2kmですから楽でした。

地蔵寺山門

 

  大きなたらちね銀杏全体を写真に取ろうと、取れる場所を探すのに苦心しました。枝が下がり、丸く繁っていました。

たらちね銀杏

 

  地蔵寺の本尊が見れました。しかし、仏像が小さすぎて表情が解りません。

地蔵寺のご本尊

 

  大師堂の壁の欄間(?)のような飾りが綺麗でした。他の寺院も昔は殆どがこのような極彩色の綺麗な建物だっただろうと想像します。予算がゆるせば、建物も、壁画もなるべく復元して見せて欲しいものです。

 地蔵寺の大師堂

 

 お寺の周りには店や食堂がいくつもあるだろうし、コンビニもあるだろうと思っていたのが大間違い。昼一時を過ぎてもなかなか食べ物にありつけません。やっと見つけたひなびた食堂に入り、おでん定食を注文。「肉類は入れないでください」と言うと、おばさんは「今頃お坊さんもお肉を食べますよ」と。「家では肉もどんどん食べているので、せめてここでは食べないことにしています」と返事。ゴマをかけたご飯と、小さな豆腐の入った味噌汁の美味しいこと。お客さんというより、近所の知り合いらしき人たち56人が、私が広島から来たというと、私を酒(ビール)の肴(さかな)に色々質問をしてきました。  

第五番札所地蔵寺(じぞうじ)から第六番札所の安楽寺(あんらくじ)までは西の方へ5.3kmも。途中の民家の庭の梅やつばきの花が眼を楽しましてくれます。このお寺は「安楽」と言う名がついているので、お年寄りに非常に人気のお寺で、観光バスが何台かとまっていました。山門は竜宮城のような鐘楼門でした。

安楽寺山門

 

 安楽寺山門の仁王像は立派で、珍しい形で左右の別々の建物に安置されています。

安楽寺山門仁王阿型

 安楽寺山門仁王吽型

 

安楽寺本堂の中も極楽のような雰囲気です。

安楽寺本堂

 

 ご本尊は近づいて見たり、近づいて写真を撮ったり出来ないのが残念。

安楽寺本尊:薬師如来

 

空海が修行中にイノシシと間違えられて猟師に矢でねらわれ、矢はそばの松の枝にあたりその枝が折れたが、空海は難を逃れた。供養に、その枝を逆さに植えたところ根がついたのだそうです。

さかさ松のある境内

 

山門の中に、その元のさかさ松の枯れ木が展示されていました。

元のさかさ松

 

 

 

(注:四国遍路はなぜ88ヶ所?煩悩が88あるからとか、男女子供の厄年の合計とか、空海が八大霊塔の土を持ち帰って、その倍数に撒いたとか、の説がありすが、定説はありません。『四国遍路と世界のの巡礼』(法蔵社)(2007)に、「・・・おそらく、観音巡礼の西国33ヶ所や、66部日本廻国、それに熊野詣の99王子などに導かれて、中世末期か、近世初頭に導入されたと思われる。・・・」という文章があります。この説が一番私には納得がいきます。ちなみに、文献では88の数は『せつきようかるかや』(1631年版)にある記載「四国へんとハ八十八か所とハ申すなり」が目下のところ古い。とのことです。)

 

第六番札所の安楽寺(あんらくじ)から第七番札所の十楽寺(じゅうらくじ)までは北西に1.2km。安楽寺を出るときはもう4時半。納経所は午後5時までしか受け付けてくれないので、大急ぎで緩やかな坂を登り、4時50分に竜宮城のような白い土台と赤い屋敷の門にたどり着きました。

十楽寺山門

 

 中門もやはり竜宮城風でした。

十楽寺中門

 

 その中門の二階に行く階段があるので、登ると愛染明王(あいぜんみょうおう)が祀ってありました。

愛染明王

 

注:愛染明王;衆生(衆生)の愛欲煩悩がそのまま悟りであることを表す明王。本地(元の仏)は金剛薩埵(さった)。全身赤色、三目六臂(ろくひ:6腕のこと)で憤怒の相をなし、後に、恋愛成就の願いをかなえる明王として、水商売の女性などの信仰の対象ともなった。】

納経所に駆け込んで、「あとでゆっくりお参りしますので」といって、納経帳を。ゆっくり読経などしていると薄暗くなってきました。このお寺の庭に緑の大きな石で作った立派なテーブルとベンチがあり、そこで一休み。十楽寺も名前がいいので人気のお寺だそうです。第一番札所からここ第七番札所まで合計約18km。

緑紋岩のベンチ

JR鴨島(かもじま)駅で野宿(建物の中だから野宿とはいえないかな?)しようとボツボツあるきはじめました。国道はまっすぐ南なので街灯も多く、車も多く、懐中電灯はつけたり消したり。途中阿波(あわ)中央橋1kmを渡る時は風も強く、足も重く、もうトボトボ。金剛杖を竿(さお)で船を押すように、後ろの方へ力を入れて、もうすっかり第3の足のように使っていました。でも、お大師様は橋の下で良く野宿されたということで、この異常に長い阿波中央橋でも、杖は一切使いません。橋の歩道は薄い鉄板一枚で真下は川、風が強く細いゴムひもで固定された菅笠が飛ばされそうになり、手で持って歩きました。

道行く人に、ファミリーレストラン・ジョイフルが鴨島駅の近くにあると聞いたので、そこを目指していたのですが、その途中にお好み焼き屋が見つかり、よさそうなので、そこに入りました。注文したのは、シーフード・そばお好み焼き、1000円也。寒さに慣れようと、10日ごろ前から自分の部屋では一切暖房は使わなかったし、小雪の時でも小雨の時でも、よく10キロぐらいランニングしていたので、この夜間歩行でも寒さはあまり気になりませんが、やはり、お好み焼きの暖かいテーブルは有難いです。店主が「ぜんざいを作ったのですが、どうですか?」と、この遍路初めてのうれしいお接待。「お接待」はした人にも功徳があるので、断ってはいけないそうです。

鴨島駅(かもじま)につき、ベンチに座ると、向かいに75歳ぐらいのホームレスらしき人が一人。鴨島さん(仮名)が「ここで泊まりますか?」と。「はい」と答えると、「ここは表も裏も戸が閉められるから温いよ」とか「二人で寝れば、体温で二倍温うなるよ」とか言って嬉しそう。私も心強い。この鴨島さんは「広島のマツダの社長は外人でしたよね」とか、色々私に話しかけてきます。「お宅は元の仕事は何をしておられましたか」と聞かれたので「教師をしていました」と方便で。すると今度は「先生、広島の景気はどうですか」とか、「先生、先生」と言って次々質問をしてきます。私が「お宅はどこの出身ですか」と聞くと、鴨島さんは「ここからたった5里向こうが里です」と西を指差しました。

 駅についてから、さらに3本ばかり列車が止まり、数人ずつ通勤客が降りてきました。何人かの人が「ただいま」とか鴨島さんに言ったり、あるいは鴨島さんがある若い男性に「もう仕事に就いてる?」とか言って、鴨島さんには顔なじみが多いようです。時刻表をじっと見ている人がいると、「次の上りは何時何分よ」とか説明し、夜遅くはいなくなる駅員の代わりに、まるでボランティアをしているみたいです。そういう訳か、キオスクの人や、掃除の人や、販売用の新聞配達が次々出入りするのに、みんな鴨島さんに「寒いね」とか声をかけています。私も負けじと、「こんにちは」と挨拶するので、彼にも私にも好意的な目で見てくれているようでした。駅から追い出されれば、軒下で野宿しようと覚悟していたのに。11時ごろになると、鴨島さんは自分のリアカーから家財道具一式の大きなポリ袋5個を駅の中に持ち込み、毛布をかぶって寝てしまったので、私も寝袋に入って寝ました。ベンチには手編みの赤っぽい毛糸のカバーがついたクッションがいくつかきちんと並べてあったので、寝ていても背中は全然痛くなかったです。  

 

   

A 第八番札所熊谷寺(くまたにじ)から 第十一番札所藤井寺 (ふじいでら)

2007212日(月)

          熊谷寺で頂いた、空海の道の地図

 

意外に心地よくぐっすり寝て、朝5時前に目が覚め、懐中電灯を手にまだ暗い道を7時には熊谷寺(くまたにじ)に着こうと急いで出発しました。

鴨島駅から第八番札所熊谷寺は約6km。土成(となり)インターチェンジが近くの土成町役場の近くで真っ赤な大きな陽が昇ったので、嬉しくて深々とご来光を拝みました。熊谷寺の山門は四国霊場の木造建築物の中で最も大きく、高さが13mもある重層構造で、その重量感はまん前に佇(たたず)む私を圧倒しました。

熊谷寺山門の説明碑

 

石碑には、「熊谷寺仁王門は1687年の建立で、和様と唐様を折衷した建物で、江戸時代の山門としては四国随一の規模を誇る。」と書いてありました。

熊谷寺山門

 

熊谷寺中門には、カラーフルな中国風の守護神が並んでいました。

熊谷寺中門

 

 熊谷寺中門の守護神は極彩色の軍神でした。

 

弘法大師が修行中に、紀州・熊野権現が現れたのが、熊谷寺の名の由来だそうです。

熊谷寺本堂

 

二重の塔は中国最古のもので、大日如来などが祀られているそうです。

熊谷寺二重の塔

 

読経を済まし、納経所で「ここのお寺は、名前に親しみを感じるんです」と、納経所の中年の女性に話しかけました。その中年の女性は「輪袈裟(わげさ)の首のところの葵(あおい)の模様が上下逆になってますよ」とか、「トイレを使わせてください」と言うと「トイレに入る前に、輪袈裟は必ずとって、白装束はできれば脱いでいくもんですよ」とか、どうみても初心者に見える私に親切に教えてくれました。ここの身障者用のトイレで冬用の下着と毛糸のチョッキを脱ぎました。今日も、ぽかぽか陽気で気温は急上昇。

第八番札所熊谷寺(くまだにじ)から第九番札所法輪寺(ほうりんじ)までは南に2.4km。途中で、道を尋ねた初老の女性は「神戸の大震災から、お遍路さんが急に増えましたよ」、「白装束は死に衣装も兼ねていて、ここら辺では聞かないけど、南のほうではそのまま亡くなる人もよくあるらしいですよ」と。法輪寺の門の両脇にはどでかい草履(ぞうり)が立てかけてありました。

法輪寺山門

 

本尊の前にはかわいらしい草履が沢山奉納してありました。本物のわらじも納めてありましたが、小さな絵馬のついたわらじも沢山納めてありました。本尊は珍しい横臥した状態の涅槃釈迦如来です。

法輪寺本堂

 

山門が清楚なら、境内の庭も清楚でした。

法輪寺山門内側

 

法輪寺は健脚のご利益があるそうで、ここで祈願札の付いた小さなぞうりを購入。(職場に戻って、永く足を患っている男性にぞうりの付いたお守りをさしあげ、法輪寺の話しをすると、数週間後ここをお参りされました。)  

法輪寺のミニぞうり

 

 『春のお堂ぞうりの香り法輪寺

(注:法輪とは仏陀の教えのこと。)

 

第九番札所法輪寺(ほうりんじ)から第十番札所切幡寺(きりはたじ)までは西に3.8km。少し歩くと、乳母車風の手押し車に腰掛けたおばあさんが「お接待です」といって、あめ玉を5個もくれました。お腹がすいていたのですぐほおばったとたんに、あっ、しまった、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と3回唱えてお礼するのが礼儀だったと思い出し、少し離れたところから、おばあさんのほうに向かって、「南無大師遍照金剛」と唱えました。(後で本を読めば、それに、納札を渡すのがもっと正式な礼儀だそうです。この次の遍路からはそうしたいものです。)

参道に入る曲がり角で、ヤクルト販売のおばさんから、ヤクルト1本のお接待を受けました。そしておばさんは「リュックをここに置いて行ったら」とリュック置き場と書いたテーブルの上に置くよう勧めてくれました。

 山門はピカピカの出来たばかりのものでした。

切幡寺山門

 

しかし、山門前の六地蔵は年期の入ったものでした。

切幡寺の六地蔵

 

本堂に近づくと、入り口に「ここから階段333段」と石塚が。急な石段を声に出して数えながら歩くと、丁度333段目を登りきると目の前に本堂が。

切幡寺本堂

 

本堂に右手の奥にはスマートな切幡観音の銅像がそびえていました。お大師さんがいたんだ服を繕おうと民家に行き、布を分けてもらえぬかと尋ねると、娘が織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出したので、感動し、これを記念してこの寺を建造したそうです。右手にはハサミを左手には反物を持っていました。

切幡観音

 

階段を往復してみて、ヤクルトのお接待より、荷物預かりのお接待のほうがずっとありがたいのが解りました。第一番札所からこの第十番札所までは約40km。「十里十ヵ寺」と呼ばれ、この十ヵ所だけで遍路を済まされる人も多いそうです。納経所に市販の本に載っている道と違う、少し遠回りだけど「空海の道」というのがあると、大きな地図で示してあるので、納経所のおばさんに訊ねると、第8番から第12番までの詳しい地図(国土省などが編集)をただで手渡してくれました。

第十番札所切幡寺(きりはたじ)から第十一番札所藤井寺(ふじいでら)までは南に10kmも。国道近くの北角に地図ポストという電話ボックスのような大きなプラスチックの箱があり、その中に例の「空海の道」という地図が誰でもとっていいように置いてありました。町ぐるみの「お接待」です。

しばらく行くと、おじさんが自転車で近づいてきて、前のかごから甘夏かんをひとつ取り出して「お接待です」といって差し出しました。「有難うございます」といって大きい甘夏かんを頭陀(ずだ)袋にぎゅっと押し込んで、吉野川の土手を越えると、若い女の子が階段に座ってもうお接待の甘夏かんをほおばっています。わたしもならって、少し横の土手の川側の斜面にすわって、食べ始めました。なんと美味しいこと。それから、吉野川のだだっ広い畑の中をとぼとぼ歩いていると、遥かかなたに別のお遍路さんが1人、2人見え隠れします。モネの絵のような全くの別世界です。

吉野川の対岸の土手を登ると6畳ぐらいの無料仮眠施設があり、流しとベッドの棚があり、下布団とビニールに入った毛布も置いてあり「施設の使用は一日のみとしてください」と札がありました。例の「空海の道」という地図には5ヵ所の無料仮眠施設のマークがあることに気が付きました。

 地図どおりの土手の上でなく、一筋南側のより近道らしい遍路道と案内のある通りを歩いていると、お婆さんが「ちょっとお接待をしたいので寄ってらっしゃいと」手招きをしています。遠慮なく土間に入ると、テーブルの上にあめ玉の入った紺色の小袋が沢山並べてあり、「好きなのをとりなさい」といわれます。私は赤い線の入った縞模様の一番きれいと思うのをもらい、今度はきちんと「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と拝みました。その小袋の中には小袋さん(仮名)の住所と一句のメモ、「いつまで縫えるお四国さんへの接待小袋、一人静かに仕事の出来る幸せ、手招きして歩む遍路に接待するも一度会うだけのご縁、○○子(86歳)」が。

 広島に戻り、3日後、私は小袋さんにはがきを出しました。「小袋さんから頂いた小袋、私の宝物。素晴らしいプロなみの出来です。私を含め多くのお遍路さんは傷を心に歩いています。寺参りや景色も少しずつ癒してくれますが、心のこもった接待は特に心を温くしてくれます。これからも頑張って縫い続けてください。お願いします。南無大師遍照金剛、2/15」と。

藤井寺に近づくと、民家の間を道しるべに沿って、狭い路地は右や左にくねくね曲がり、道は段々細くなり、とうとう人一人がやっと通れる山道になり、最後は少し下り道があり駐車場に続いていました。

藤井寺山門

 

バスが着いたばかりで、団体さんの案内役のお坊さんが、「こちらがお大師さんがお手植えになった五色の藤です。」と言って指差した先は、葉っぱ一枚もつけていないそっけない枯れ木のような広い藤棚でした。

藤棚に囲まれた庭(2008年9月撮影)

 

団体さんの賑やかな早口の読経のあとに、私はゆっくり読経しました。

藤井寺本堂

 

ご本尊の姿が遠くにどうにか見えます。

藤井寺ご本尊:薬師如来

 

龍の天井画は怖い表情で、見事です。地元の画家による奉納だそうです。

藤井寺の龍の天井画

 

 本堂の右手に解りにくいけど、焼山寺に向かう道があります。

焼山寺みち

 

帰りはバス通りを辿(たど)って、緩やかな坂を4キロ先の鴨島駅に向かいました。11日と12日の両日に歩いた距離は約60km。寝袋や雨具や本などを入れた大きなリュックが負担になったのか、右足首がいたくなり、湿布とサポーターでもたし、両ふくらはぎは身が入って、はれた感じで、もう棒のよう。金剛棒も2cmぐらい短くなったよう。大きなリュックには今考えれば、用心しすぎて雨具など不必要なものもだいぶ入っていました。重い荷物も足にこたえたようで、五日市駅について、とても自転車に乗る気力はなく、タクシーで自宅に。

家に戻って、お遍路についで思ったことを一言。我々の様に格好は一人前のお遍路姿で、無理に長時間歩く苦行をし、変に長い読経に時間を費やす者より、毎日普通に畑仕事に精出し、自然にご来光を拝み、祠(ほこら)に花など手向け、遍路さんを見れば接待をせずにおれない、ここらのおばあさんや、おじいさんのほうがずっと仏道に近いのではないかと。

 『寒い朝日の出を拝む野良姿

 

 

 B 玖珂町から鴨の湯                    2007224日(土) 

 昼前、仕事中に、真宗さん(仮名)から電話があり「娘がやっと決心したので、一緒に徳島に連れて行ってください」と。実は、私は、悩みをかかえた親子真宗さんとその娘さんに一緒にお遍路さんをしないかと勧めて、行くなら車で一緒に行こうと誘っていたのです。真宗さん親子(母娘)を迎えにお宅に行くと、真宗さんはすでに長い真言宗流の数珠を首にかけておられました。真宗さんは熱心な仏教徒(浄土真宗西本願寺派)で、般若心経を含め、いくつか御経を空で覚えておられます。真宗さんは「この数珠の玉の個数は108個あり、ほんものの沙羅(しゃら)の木で作られてるんですよ」と教えてくれました。

6時半ごろ高松自動車道の板野(いたの)インターを降り、親子をホテルに送り、それから私は一人きりでひたすら暗い県道2号線を西に向かい、またJR鴨島(かもじま)駅に行き、先日一緒に泊まった鴨島さんに会いたくて探したけど見つかりませんでした。急いで「鴨の湯」9時半ジャストに着いたけど、なんと丁度営業終了時間でアウト。我が家の近くの大型銭湯「ゆ吉」は深夜一時まで営業なのに!風呂の番台で隣にある無料仮眠施設の申し込みをし、3畳ぐらいの小屋にもぐりこみました。そこで、20歳と23歳の学生らしき青年と私3人で寝袋を並べました。青年は2人とも寝袋に入ったまま、熱心に携帯メイルを打っていました。私は懐中電灯の明かりで、「空海入門」(ちくま新書、竹内信夫著)の後半を読みました。この本は入門とうたっているのに、むずかい漢字が多すぎて、役には立つけど、はっきり言って難解です。

 

 

 C 第十一番札所藤井寺から第十二番札所焼山寺   2007225日(日)

この無料仮眠施設の小屋は壁がビニールの波板一枚なので、上からも下からも隙間風が入ってきて寒いのと、隣の人とぶつかるのではないかと心配で、夜中何回も目が覚め、もう5時前には起きて、「鴨の湯」の駐車場を出ました。

JR鴨島(かもじま)駅から第十一番札所藤井寺までは約4km。藤井寺の駐車場に着くと、女性一人を含む6人の学生がヘッドライトを頭につけて、荷物の整理などしていたので、プリウスのヘッドライトを手助けにと思って当ててサービス。やがて皆が準備体操を始めたので、私もその輪のそとで一緒にちゃっかり体操。

 第十一番札所藤井寺から第十二番札所焼山寺(しょうさんじ)までは約10km。四国お遍路で最も厳しい道で、最後まで残った「空海の道で、山あり谷ありの最もお遍路道らしき道だそうで、もちろん私はわくわくした気持ちで臨みました。6時半ごろ、空がしらみ始め、まだ電灯の灯が星のようにキラキラまたたく吉野川の両岸の町が一望できました。3kmぐらい歩くと、最初の休憩所長門庵。小さな粗末な建物でした。

 さらに3キロ歩くと立派なお寺の柳水庵。名前のごとく、きれいな水槽があり、美味しい水を頂きました。遍路道のところどころで見つかる山水があまりに美味しいので、もうスポーツ飲料やペットボトルのお茶を買うのは全くやめて、空のペットボトルに入れた水がもっぱらの水分となっています。道は段々厳しくなっていきます。さらに約2キロ歩き、急な石段を上がると、突然巨大な弘法大師三の銅像が目前に現れ、その大きさと威厳のある表情に圧倒され、おもわず拝みました。その背後のびっくりするほど大きな杉にさらに圧倒されました。

 そこから少し下り坂があり、その谷間に初めて農家を数件見つけました。向こうから、真っ黒に日焼けして、頭にタオルをかけた30から40歳と思える男性がやってきたので、「逆打ち(ぎゃくうち)ですか?」と声をかけると、ニコニコして「はいそうです。寺まで後もう少しですよ。道はすごく厳しくなるけど頑張ってください」と。うわさに聞いていた、功徳(くどく)が3倍あるという、「逆打ち」(88番札所から逆に巡礼すること)をする人を始めて見ました。結願(けちがん:88ヶ所巡礼完了)真近の彼の表情に力強さを感じました。

 非常に険しい坂を登っていると、ふと小さな立て札に「野宿代わりの家、前もって連絡ください:電話番号○○○」と。うれしい、いわゆる「善根宿」(ぜんこんやど)の案内です。焼山寺に近づくと、道は広く水平近くになり、参道の左手に真新しいピカピカの石灯籠とそれを繋ぐ石の柵が続いています。作るのにどれくらいお金がかかるだろうかと思いながら眺めて歩いていると、「石灯籠の寄進155万円、残り件数わずか」の募集の看板が立っていました。寄進者の名前が大きく彫ってあるピカピカの石灯籠や柵はどうも好きになれません。

 道が狭くなり急に曲がっているので、どこにお寺があるのかなと、きょろきょろしていると、すぐ右手の急な石段の上に山門が見えました。

焼山寺山門

 

  本堂に向かう参道は鬱蒼とした大杉の林でした。焼山寺が西の高野山とも呼ばれる訳です。

焼山寺境内

 

  本堂のご本尊も、大師堂の大師像もガラス越しに見えました。写真を撮りましたが、ぼけてほとんど解らない失敗品でした。

焼山寺本堂

 

  大杉の幹で作った電話ボックスは参拝者の注目を浴びていました。

焼山寺の電話ボックス

 

 納経帳にさらさらと「虚空(こくう)地蔵」(その気でよく見ると読める!)と書いてもらい、お大師様の金色のミニチュアのかわいらしいお守りを3個買いました。(このひとつ、「遍路道の最初の難所焼山寺で買ったのですよ」と抗癌剤治療を受けている中年の女性○○さんにプレゼントしたら、胸に抱いて涙ぐんで喜んでもらえました。)   

 

 第十二番札所焼山寺から第十三番札所大日寺(だいにちじ)までは約21km。焼山寺から約1km下ると、衛門(えもん)三郎の墓標代わりに地面に立てた杖が杉の巨木になったと謂われがある大杉が見えたきました。

 立てた杖から育った杉の巨木

 

 車道右手に沿って杉の巨木の奥に杖杉庵(じょうさんあん)がありました。

杖杉庵

 

 お堂のすぐ左手に衛門三郎が弘法大師に跪いてお詫びしている銅像が左手に見えます。衛門(えもん)三郎の顔つきは頑丈そうだがすでに許しを得てまなざしは非常に穏やかでした。衛門三郎は弘法大師を虐待したために天罰が当たり子どもを次々に失い、そして許しを得るために逆周りに巡礼しここで弘法大師に出会い、往生したそうです。

衛門三郎像

、そこから車道を約1km下ると、このお遍路道で初めての村らしき村、鍋岩という村があり、町営バスの終点があり、バスの運転手が時間待ちしていました。

そこから左手にまた細い険しい登りの「空海の道」です。途中、立派な作りの6畳ぐらいのたたみ敷き休憩所も見つけました。峠を越すと下り坂で、途中山の斜面一面が桃色や白の梅の花の花霞で覆われているのに感動。これが本当の桃(梅?)源郷だと。私は心の中では、遍路は修行だから少々の苦行をしようと覚悟しているのに、大師さまは「生きることはこんなに素晴らしいもんだよ。」といって、素晴らしい景色を次から次に差し出しているように思えます。しばらく行くと、道端で父と息子らしき二人が座ってみかんを食べていて、「ここに八朔(はっさく)がありますよ」と。近づくと、山水を受ける石臼があり、その中に八朔が数個ぷかぷか浮いています。すぐ後ろに立てかけた板切れに「八朔をどうぞ」と書いてあります。これは無人「お接待」だと理解し、今日始めての「お接待」なので大変嬉しく、用意された板切れのベンチに座って八朔をいただきました。

接待のはっさくうましへんろ道

その後は、ただ一人、ほとんど人も家の見当たらない車道を黙々と歩き、やっと鮎喰(あくい)川が見えたので、川に沿ってさらに約5km沿って歩くと、第十三番札所大日寺(だいにちじ)まであと7〜8kmのところで2時になりました。3時に真宗さん達と地蔵寺で落ちあう約束で、丁度広野の村のツバメタクシーの車庫まできたので、そこからタクシーで藤井寺に。地蔵寺に車で着き待っていると、3時過ぎに真宗さん達がタクシーで着いたので、真宗さんと一緒に読経しました。

 寺を出るとき「先生はご詠歌(えいか)をとなえておられますか?」と訊ねられました。あ、しまった。私は早く回ることばかり考えて、ご詠歌のことを忘れ、全く勉強していませんでした。ちなみに、地蔵寺のご詠歌は「六道の能化の地蔵菩薩、導きたまえこの世後の世」。聞くと、真宗さん達は1万2千円でタクシーを借り切ったので、もったいないので、昼食もとらず、10番札所まで急いで廻ったとのことです。

家に戻って思ったこと。般若心経の御経本の中に開経偈(かいきょうげ)が載っているのですが、これに「てにおは」がついてる文があり、それを読むほうが自分の心にしっくりするので、今回から「無上甚深微妙(じんじんみみょう)の法は 百千万劫(ごう:年の意味)にも遭(あ)い遇(あ)う事難し・・・」というように唱えることにしました。また、般若心経も同じように「深般若波羅密多(じんはんにゃはらみた)を行ずる時。五蘊(おん:心身の意味)は皆空なりと照見し・・・」というたように。本は「心に響く般若心経」、公方俊良(くぼう・しゅんりょう)著、三笠書房発行を何回も読むのですが、なかなか意味が覚えられません。われわれにも聞いてすぐ解る、文語調でもいいからやさしい御経が欲しいものです。

 

 

D 第十三番札所大栗山大日寺 から第十五番札所薬王山国分寺

2007年3月21日(水、祝)  

 朝7時家内と共に自宅からタクシーに乗り込みました。金剛杖を二人とも一本ずつ握って。私の金剛杖は茶色っぽく前のものより丈夫なもので、多分ヒノキの材質で、三村仏壇店で600円。細い綿ロープを握り手に巻いて、破魔(はま)矢から鈴をひとつ拝借。磨り減った前の金剛棒と比べたら5センチも差がありました。2004年に相次いで亡くなった両親の供養の気持ちを込めて、私はツゲで出来た腕数珠(4000円也)を手首に。12時ごろに徳島線JR石井駅につき、待っていたツバメタクシーに乗り先回歩き終えた地点のその会社まで。

ツバメタクシー会社から第十三番札所大栗山大日寺(おおくりざんだいにちじ)までは約7.5km。大日寺は88ヶ所札所に3つあるので、区別するため大栗山大日寺とこの日誌では呼びます。タクシー会社の駐車場で、お遍路すがたに変身し、すぐ右手の橋を渡り、鮎喰(あくい)川の南岸に沿った県道21号線をひたすら東へ。しばらく行くと左手、川に沿った土手にきれいな黄色い水仙の花がみごとにずらり。この道は車の量が多く、ところどころ狭いところもあり、少し怖く、家内は「車にくたびれる」と言っていました。中間点で自動販売機のある店のすぐ横に、屋外のトイレがあり、家内は非常に感謝していました。約2時間後やっと一宮神社が右手に、狭い道をはさんで左手に窮屈そうに大日寺が見えました。

大日寺山門

 

両手を合せた形のお堂に立っているしあわせ観音は人気だそうです。

しあわせ観音

 

本堂では毎日6時から朝の礼拝があり、宿坊に泊まっている人でも、誰でも参加できるそうです。

大日寺本堂

 

納経所の右手には、案内の本にあった春には白い花を秋には赤い実をつけるというオガタマの大木があるのを確認。

 第十三番札所大栗山大日寺(だいにちじ)から第十四番札所常楽寺(じょうらくじ)までは北へ約3km。大日寺を出て、車の多い怖い狭い道をすぐ左に曲がると、広々とした畑の中の安全な道。千葉から来てもう一週間歩いているという背の高い好青年と色々と話しながら歩いていると、小型トラックに乗ったおじさんが「お接待があるので受け取ってください」と云って、おせんべいと黒砂糖の固いパンのお菓子(われわれは「くろんぼう」と呼んでいた昔菓子)の入った袋3個を取り出して、渡してくれました。納め札を手渡すと、そのおじさんは「納め札はまとめて、高野山に納めに行きますから」、と。その袋の中には「皆生抄」と題した、自然と人生賛歌の詩集もあり、裏表紙には「司 やすし」とありました。さっそく袋の中の昔菓子を取り出して、口の中に入れると美味しいこと。司さんはお遍路さん応援団長といったところでしょう。好青年千葉さん(仮名)はかわいそうに足の豆がつぶれたとびっこをひいていました。千葉さんは大学を卒業し、仕事に就くまで1ヶ月お遍路をする予定だと。頭も丸めお遍路本気なのが窺(うかが)えます。

 常楽寺の手前に、りっぱな児童福祉施設「常楽園」がありました。常楽園の運営するもので、約40人の色々な問題を抱えた子供たちが生活しています。

常楽園

 

  常楽園の前に、初代園長岩根千代野さんのレリーフがありました。これこそがお寺の本来のしごとでしょう。感動です。

初代園長岩根千代野さんのレリーフ

 

常楽寺は巨大な岩の上に建っているようで、そこに至るきつい階段も、線条の入った緑がかった岩を削ったものでした。

常楽寺入り口

 

上から階段を見てみると、岩を削ったままの石段の縞様子がよく解ります。

常楽寺入り口の石段

 

 

本堂の前の庭は岩肌がまるで流水のように見えるので、「流水岩の庭」と呼ばれています。

流水岩の庭全景

 

流水岩

 

本堂はアララギの大木に邪魔され、全景がなかなかカメラに収まりません。

常楽寺本堂

 

 アララギ(イチイ)の大木が庭の主人公です。

アララギの大木

アララギの幹の間にかわいらしいアララギ大師が座り、こちらを見下ろしていました。

アララギ大師

 

納経所で本尊緒影(ほんぞんおすがた)を受け取ると、その柔和な魅力的な容貌に魅了され、「弥勒菩薩(みろくぼさつ)でしたね。優しい顔ですね」というと、受付けの女性は「そうです。弥勒菩薩だから優しいのですよ」と。

(注:弥勒菩薩は567千万年後に、人類を救済するために現世に現れると言われています。それまで、人類は生き延びれるのですかね。)

 第十四番札所常楽(じょうらく)寺から第十五番札所薬王山国分寺(やくおうざんこくぶじ)までは北へたった0.7km。途中、白いひげをのばした老人が座って托鉢をしていましたが、純粋にお遍路のための托鉢か、遍路道を利用した物乞いの人なのか、申し訳ないけど我々には分からないので、避けて通りました。国分寺に着いたのはもう4時半。聖武天皇が統治のため諸国に六十六の国分寺を建てられ(741年)、この寺はそのときのひとつだそうです。国分寺と同名の寺は四国88ヶ所のうち国の数だけ、4ヵ所もあるので、四国のひとは阿波の国分寺と呼ぶそうです。

阿波の国分寺山門

 

  本堂は一度消失し再建されたものですが、昔は地方の役所の機能もしていただけに見ごたえのある重厚な2階作りでした。

阿波の国分寺本堂

 

  七重の塔の心礎はめずらしい環溝型と言って中心に確かに、へそがありました。

七重の塔の心礎

 

 「5時前の列車に乗りたいので」と、納経所の人にタクシー会社の電話番号を聞くと、親切に電話をかけてくださり、タクシーがすぐ来たので、3km先の府中(こう)駅まで、余裕で間に合いました。

 紅梅や早咲きの桜をめでながら、ポカポカ陽気のなか、何処まで歩けるか危ぶまれた初参加の家内にとってものんびりの約11kmの歩き遍路は、いままでの旅行と違う素晴らしい日帰り旅行でした。

   『花がすみこの世の極楽へんろ道  』

 

 

 E 3月31日(土)JR五日市から

           JR府中(こう)へ  

 夕刻五時半ごろJR五日市を出発。今回は鈍行で行くことにしました。急行を使うと片道9000円するのが、普通切符だとたった5500円。大きなリュックを担いでいるので、しばらく立っていて、空席があれば座ることにしているのですが、最初の列車は混んでいましたが、車内は途中4回乗り換えるごとに空いてきました。列車に乗るとまず、最近足を酷使するとこむらがえりしやすくなってきたので、筋緊張をとる薬ミオナールを1錠口の中にポイ。こう駅の手前3つまえのJR佐古駅で乗り換えるために降りて、予定時刻数分前に下りの列車が駅員に指定されたホームに入ってきたので乗り込んで、近くに座っている人に「この列車はこう駅に行きますか」と聞くと、「違います、これは徳島駅行きですよ」と。慌てて降りてつぎにきた列車に乗りました。これは難しい乗り換えです。

 JRこう駅12時前に到着。駅の前には土地の若者が2、3人うるさいバイクで集まっていて、30分ばかり騒がしかったけど、その後は私一人で逆に静か過ぎ。こう駅は小さいけれど、窓も前後のドア−もアルミサッシで風の遮蔽は完璧。いい無料宿です。

 

F 第十六番札所光耀山観音寺から第十九番札所立江分寺へ 4月1日(日)

 五時半、東の空がしらみ始めたので国分寺を目指し出発。ここらの道路標識に国府町と書いてあるので、府中をこう駅と呼ぶようになったのかなと?途中道に迷って、畑の中を歩き出したが、地図にある四国電力の大きな高圧線の鉄塔をめざし、コンパスも見ながら西のほうへ歩くと、国分寺に無事到着。国分寺は3月21日に納経帖の押印記入は済ましているので、すぐ阿波の観音寺を目指して北上。

 国分寺から阿波の観音寺(かんのんじ)までは南東へ2km。観音寺は88ヶ所札所のなかに2ヶ所(もうひとつは讃岐の観音寺)あるので、区別するために阿波の観音寺とこの日誌では呼びます。観音寺は住宅街の中にあって,山門はすぐ道に面していました。ずいぶん小さなお寺ですが、端麗ですがすがしい感じのお寺でした。

阿波の観音寺山門

 

 庭も狭く、ずいぶん小さなお寺ですが、端麗ですがすがしい感じのお寺でした。

阿波の観音寺本堂

 

 (注:御本尊は 千手観世音菩薩で、観音菩薩の変化身(へんげしん)のひとつで、千本の手は衆生を漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表しているそうです。)

 第十六番札所光耀山観音寺から第十七番札所井戸寺(いどじ)までは北東に3.5km。近くの国道で80才ぐらいの巡礼服のお年寄りがシルバーマークをつけた軽四のワゴン車にのって、「国分寺はどういったらいいですか」と訊いてきました。道を詳しく説明して、「どこからこられましたか?」と聞くと、「愛知県からきました」と。大変な根性だと感心。

  この仁王門は武家屋敷の長屋門に似ていて、藩主蜂須賀重喜が寄進したものです。

井戸寺山門

 

 井戸寺は大規模で、みごとに金色に輝く7体の御本尊(7仏薬師如来)を全面的に開放してあり、ゆっくりとありがたく拝観しました。他の寺院ももっと御本尊を開帳して拝観させて欲しいものです。  

井戸寺本堂

 

 井戸寺につくと早速、井戸を覗いて自分の顔が映るか見ました。ちゃんとはっきり見えたので安心。見えれば、この一年は無病息災。見えなければ、3年以内に災難が降りかかるというから怖い。井戸のあるお堂の中に、大師さんが井戸の水面に映った自分の見て彫ったという御像があるのですが、設置場所が暗く、御像は30cmぐらいの小さいもので、顔の様子が解らないのが残念。この井戸水は飲めば御利益があるといい、100円のプラポットが用意してあるので、土産にと水を注ぎました。

 井戸寺の井戸

 

 第十七番札所井戸寺から第十八番札所恩山寺(おんざんじ)までは南東へ約10km。しばらく歩いたあと、鮎喰(あぐい)川の土手に、右を指差す遍路みちの道標が見つかりましたが、その道は山越えの細い道なので、私は楽な平坦な道を選び真直ぐ。徳島駅の目抜き通りの正面に眉山ロープウエイの上り口の建物があり、そこから賑やかな阿波踊りの音楽が聞こえてきました。阿波踊り会館です。

 途中、道路工事の交通整理のおじさんに、夜から雨だという予報だったので、「天気がもちますかね?」というと、「多分もちますよ。今ごろお遍路さんが団体さんもあって多いですよ。でも今日は少なくて、朝から10人ぐらいですがね」と。面白くもない国道をずっとたった一人で黙々と歩いていると、中年の女性に追いつき話し掛けると、彼女は「私は名古屋の近くの町からきました」、とか「山を越えるほうの道を通り、お遍路道らしくて、水車小屋がゴトゴト鳴っていて、素敵な道でしたよ」とか。

 恩山寺山門は気をつけなければ見落とすような、赤い橋の右手の、崩れそうな小さな門でした。

恩山寺山門

 

 

 恩山寺に近づくと、お大師さんお手植えの「びらん樹」の大木が右手に。幹の表面が火傷のあとのただれの「びらん」にそっくり。

びらん樹の大木

 

  びらん樹の樹皮は灰褐色(かいかっしょく)で燐片としてはがれやすく、樹肌は紅黄色(こうおうしょく)です。「びらん樹の間に大師母堂像があると聞いたのですが、みつかりませんが」と納経所に人に聞くと、「そんな話は以前にも聞いたことはありますが、私たちはみたことがないです」との返事???

びらん樹の幹

 

 

 恩山寺はもと女人禁制だったのをお大師さんが廃止して、お母さんを迎え入れて孝行され、母の恩を思うという意味で恩山寺と名づけられたそうです。

恩山寺本堂

 

 探すと、大師堂の横に、質素な母御堂がありました。

 

母御堂

 

 納経所で恩山寺でしか手に入らないという、珍しい「摺袈裟(すりげさ)」を700円で買いました。お守りみたいに内ポケットに入れたりして身につけるものです。

摺袈裟

 

注:摺袈裟;別名を袈裟曼荼羅という。僧侶が用いる袈裟のうちに梵字で曼荼羅を書いたもの。摺るとは版木で印刷すること。これを持てば、あらゆる病気も治癒し、悪いことを良いことに変える功徳がある。これを持てば必ず極楽浄土に行ける。仏壇に供えると故人の供養になる。)

 第十八番札所恩山寺(おんざんじ)から第十九番札所立江寺(たつえじ)までは南東へ約4km。小さな峠をこえると、お京塚の大きな石碑が現れました。

 お京塚の石碑

 

 お京は元京都の技芸で、主人を殺し、密夫と共に立江寺まで逃げてきたが、髪が本堂の鉦(かね)の緒にまきついたので、恐れをなし改心し、2人で寺の近くに庵を立て仏道に精進したということです。今日は、6角形のお京塚はこんなにきれいな桜に囲まれて、お京さんも本望だろうと思いました。

 お京塚

 

  『弔いの花びら散るお京塚

 

  それから少し歩くと真っ赤なお京橋が見え、もうその橋の向こうの小さな商店街を抜ければ、すぐ立江寺でした。

立江寺山門

 

  立江寺は元、諸人の理非曲直を見分ける関所でした。

立江寺本堂

 

  本堂にはお京さんの髪を絡めとった鉦(かね)の緒が恐ろしげに下がっていました。

鉦(かね)の緒

 立江寺からすぐ300メートル東にJR立江駅がありました。この駅も無人で、おまけに切符の自動販売機も入場券発券機もありません。徳島まで無札乗車です。おおらかなものです。遍路あとに食べる、徳島駅で買った名物の「小鯛寿司」弁当の美味しいこと。

 遠くの山に頭上近くに桜の満開をめでながら、朝から晩までぽかぽか陽気の中を、33km花見三昧。こんな贅沢な旅は絶対にありません。

  『ありがたや花見三昧へんろ道』

 

G JR五日市駅からJR立江駅へ         4月7日(土)  

 真夜中の12時前にJR立江(たつえ)駅に着きました。駅には先客がいて、駅舎と線路のスペースにテントを張って、すっかり寝込んでいて、私の挨拶に返答も全くなしです。2時間ばかりベンチで寝ましたが、寝袋を持ってこなかったので、冬用下着を着ましたが、寒くてなかなか寝れません。先客を起こさないようにと、静かに歩いたり、缶コーヒーを飲んだり、本を読んだりして時間つぶし。寒の戻りです。先週はバカ陽気だったので、油断して寝袋を省いたのです。寝袋を持参しなかったのは、5000円の小さいリュックを買ったばかりで、これに収まるよう荷物を軽くしたかったのが主な理由です。  

 

H 第十九番札所立江寺から第二十二番札平等寺     4月8日(日) 

 第十九番札所立江寺(たつえじ)から二十番札所鶴林寺(かくりんじ)へは約14km。右足首と右膝に痛み止めのボルタレンテープを2枚ずつ貼りサポーターをはめて、寒くて寝れずに震えているよりはましだと、5時15分、まだ薄暗い中歩き始めました。駅舎を出ると東の空が少し白み始めていました。立江寺は先週、納経を済ましているので、脇を通り過ぎるだけ。車道を10キロばかり歩くと、右手に東林庵の大イチョウの大木が見えてきました。この大木が目印で、ここを過ぎるとすぐ左手に入ると歩き専門の「歩く道」です。

 大イチョウ

 

 鶴林寺への山道は88ヶ所の中で3大難所のひとつです。この道には「丁石」が多く見うけられます。お遍路は江戸時代から盛んになったそうですが、ここの「2丁」(1丁は約109メートル)の「丁石」(寺までに1丁ごとにある道しるべ)は室町時代(1363年)のもので、最も古いものとか。

 二丁目を示す丁石

 

 鶴林寺の本堂に着くと両側に青銅の大きな鶴の像が並んでいました。2羽の鶴がご本尊を守るようにして、老杉に舞い降りてきたのをお大師さんが見て、記念して鶴林寺と名づけたそうです。

 鶴林寺の鶴

 

 鶴林寺で団体さんの世話役らしき女性から「お接待です」と言って日本タオルを渡されました。タオルの入ったビニール袋の中の説明書を見れば、生駒山宝山寺の住職が四国遍路の先達(せんだち)になったことを記念する品でした。日除けのために頭から日本タオルをかぶったお遍路さんをよく見かけるので、このタオルは有難く思いました。今日は、良い気候になったせいか、多くの人を追い抜きました。夫婦、女性2人、母と娘、男一人、女一人と色んな組み合わせでした。今日は夫婦の組が目立ちます。

二十番札所鶴林寺(かくりんじ)から第二十一番札所大龍寺(たいりゅうじ)へは約8km。急な坂を下り谷川に達し、またすぐ急な坂を登ります。鶴林寺からの下り坂で、とぼとぼと歩いている70才ぐらいの女性に追いつき、「一人で歩いておられるのですか?」と声をかけると、「はい一人でずっと歩くつもりです。焼山寺を登るときは誰にも会いませんでした」と色白の優しいニコニコ顔で答えられましたが、女一人での歩き遍路、大変な思い入れがあるのでしょう。大龍寺は西の吉野山と言われ、寺に近づくと左右の巨大な杉の老木が山門のように私を迎えてくれました。

お参りを済まして納経所に向かうと、前に「接待所」と大きく書いた張り紙が貼った大きなテーブルが2個並んでいました。近づくと、ポップコーンの入った袋と、せんべいや飴の入った布の小袋を「接待です、はいどうぞ」といって、当然のごとく渡してくれるのです。納経所の前のベンチに座り、他の人にならって、さっそく美味しいポップコーンを口にほう張りました。厳しい急な坂と多くの石段を登ってきた苦労がもう報われた気持ちです。納経所では龍のデザインの車用ステッカーが気に入ったので、お土産に6枚買いました。このステッカーは軽いしお土産に一押しです。

 第二十一番大龍寺(たいりゅうじ)から二十二番札所平等寺(びょうどうじ)へは約12km。途中大根峠という細い歩く道があります。地元のお年寄りに追いついたので、「もう少ししたら、だいこん峠ですね?」と訪ねると、「他の人も大抵だいこん峠とゆうてですが、本当はおおね峠ですよ」と。すごい急な坂道を登り、峠を超えるともう残り3km。里に近づくと竹林の斜面に1.5メートルに揃えて切った竹がずらりと30本ばかり並んでいました。杖を持っていない人、もう一本杖がいるひとのために、御自由にお取り下さいという、粋なお接待です。おおね峠の近くには一本のだいこんも無く、その代り大きな木の根が行く道を無数に横切っていました。

 峠の山道を抜けて、畑の間の道に出ると、遠くに接待所と大きく書いた白いテントが目に入りました。4−5人のお年寄りの女性がお世話をしておられました。「どうぞ、お休みください」と誘われ、テーブルにつくと、お茶、混ぜご飯のお握り、ゆで卵、せんべい、クッキーの豪華なお接待でした。納め札を渡そうとすると、「それは、私達のお寺の平等寺さんに納めてください」と。こんな門徒さんの沢山いるお寺さんはほんとに幸せだと思いました。

 平等寺に着くと、カラフルな表札や垂れ幕が疲れた私の心を明るくしてくれます。

 平等寺山門

 

 本堂の右手に頑丈ないざり車が3台並んでいました。大正時代に高知の人などが「いざり」が治ったので感謝して納めたそうです。こんな車に乗ってまで、寺参りとしたのだと思うと感動します。私の勝手な想像では、家族の人が歩けなくなった人を車に乗せ引っ張ってきて、寺の御本尊さんを拝ませようと、引っ張ったり押したりして階段を登らせたのが、リハビリにもなって座骨神経麻痺などが治ったのではないかと。

 「いざり車」3台

 

 寺の前で、中年の男性が座禅のような凛(りん)とした姿勢で托鉢(たくはつ)をしていました。私は財布に残っていたわずかな小銭を漆の茶碗に入れて、「ずっと歩き遍路をされるのですか?もう5回も6回も巡礼されましたか?」と聞くと、「納経をしたものが22回、それ以外を含めると50回ぐらい巡礼しました。こじき遍路なので良くはないですが、廻れるだけで私は幸せです」と。私は「いや、ちっとも悪くはないですよ。すごいですね。」と。さらに「私は野宿の歩き遍路を通したいと思っているのですが」というと、「6月に入ると、蚊が出てくるので、蚊よけのネットを用意したほうがいいですよ」とアドバイスをもらいました。

 平等寺からJR新野(あらたの)駅までは近くて1.5km。今日歩いた距離は合計35km。先週に続いて、花見三昧の歩き旅。素晴らしい、の一言です。今日のコースは約半分は急な上り坂と下り坂で厳しいコースでしたが、もう足も長距離歩行に馴れ、多くのお遍路さんに会い、多くの地域の人と会い、身も心も四国の景色に溶け込み、すっかり一人前のお遍路さんになったような心境です。

 

 

I 二十二番札所平等寺から第二十三札所薬王寺      415日(日)

 今回は日帰りなので朝6時前にJR五日市駅を出発です。少しでもお遍路らしくと、家内にお握りを3個作ってもらい、列車の中で食べてました。JR新野(あらたの)駅についたのは10時半頃。回を重ねるごとにお遍路出発駅が遠くなり、今日は片道4時間40分近く、運賃も9520円もかかりました。駅に着くなり、中年の女性がスポーツ飲料とお茶のペットボトルを差し出して「お接待です。バイクが故障して動かなくなり、家に戻るところです。お遍路さんに会えて気が晴れました。私の父は元先達(せんだち:公認のお遍路指導者)をしていました」と。お接待をする人からこんな喜びの言葉を聞くとは!私も、出だしから元気が出ました。

 新野(あらたの)駅から第二十二番札所平等寺(びょうどうじ)までは北へ1.5km。平等寺は前回納経帖は済ましているので山門で1礼のみ。

 第二十二番札所平等寺(びょうどうじ)から第二十三札所薬王寺(やくおうじ)までは約22km。山門から真直ぐに南に向かい、のどかな里山の細い山道を約5km歩くと室戸岬に向かう広い国道55号線に出ます。その途中、大柄な外国人の男性が座って休んでいたので、「どこから来ましたか?」と聞くと、「オランダから来ました。花が沢山あって、綺麗です」と。次ぎに、随分大きなリュックを重そうに背負ってとぼとぼ歩いている年配の男性に追いついたので、「おいくつになられますか?」と聞くと、「72歳です。明日から天気が崩れそうですね。テントを張るいい所があるか心配してるんですが」といわれます。「私はJRの駅でもう3回寝たことがありますよ」と言うと、彼は「それを聞いて安心しました。薬王寺の近くに駅がありましたね。泊まっても大丈夫ですかね?」と。私は「大丈夫ですよ」と返事しました。(迷惑をかけない限り泊まっても文句を言われないだけで、立前はだめなのでしょうが。)

 単調な国道55号線は車も多く、緩やかな上り坂の上のほうで、歩くには少し恐いトンネルを3ヶ所通過しました。

 元気が出て、急ぐと3時過ぎに国道沿い右手に薬王寺の山門が見えてきました。山門をくぐり左手の女坂を登ると、石段の各段に1円玉が沢山置かれています。厄年の数だけ1円玉を並べると厄除が出来るそうです。薬王寺は薬師如来が本尊で、病気などの厄除(やくよけ)の功徳(くどく)があるということで人気があり、参拝する人の車が広い駐車場に次ぎから次ぎに来ていました。

 薬王寺山門

 

 知り合いの太田さんも先月ここにお参りに来て、1昨日が手術の日でした。3日前に病院に見舞いに行って来たところです。完治という御利益があればいいのですが。帰りは男坂を下りました。寺の前には何軒もお土産店が並んでいて、そのひとつで「亀の卵」という名の饅頭を買いました。薬王寺の東2kmの大浜海岸は海がめの産卵地として有名です。以前、この近くの町出身の外回り営業の人が「小夏」というみかんを「里の特産です」といって持ってきて、美味しかったのを覚えていて、他の店で「小夏」も買いました。5〜6cmしかないかわいいみかんです。JR日和佐(ひわさ)駅に行くのに、地図通りに商店街を通り、遠回りして駅に着いてみると、国道55号線から高架ですぐ行けるようになっていました。  

 今日は往復の交通で要した時間が約10時間、歩いたのは距離は約24km、時間はたったの約4時間。非常に効率の悪い旅でした。本当は退職してからのつもりでしたが,退職できなくて、前倒しの遍路なので仕方ないでしょう。でもいわゆる一国打(いっこくうち:たとえば阿波〔あわ〕の国のみの遍路)に相当する旅が4月中に終わり、一段落ついた気持ちです。

 

 

 J JR日和佐(ひわさ)駅から室戸岬

2007年9月16日〜17日

 JR日和佐(ひわさ)から道の駅「宍喰(ししくい)温泉」

 JR日和佐(ひわさ)から道の駅「宍喰(ししくい)温泉」までは約38キロ。前日に最終列車で日和佐駅に着き、例のごとく一晩ベンチで寝て、朝6時に駅を出発。4キロも歩いて、日和佐トンネルの前で、頭陀袋(ずだぶくろ)を駅のベンチに忘れてきたのを思い出しました。ここは頭の使いどころ。104番で駅に一番近いタクシー会社の電話番号を聞き、タクシーの運転手さんに「駅のベンチに頭陀袋を忘れたのですが、タクシー代はもちろん払いますので、日和佐トンネルの前で待っているので、持ってきてくれませんか?」と。すると10分後にはちゃんと頭陀袋は手中に!

 牟岐(むぎ)警察署の駐車場に最初の接待所のテントが。近くにお寺がないようなので、「皆さんはお寺の門徒さんですか?」に、「いいえ、地域のボランティアで、替わり番にやってます」と。少し雑談をして、御礼を言って出ようとすると「菜種の種ですが、花一杯の道運動をしているので、どこでもいいですから空き地に蒔いてくれませんか」と、菜種の紙袋を3個託されました。

 雨が降ったり止んだりの中、牟岐(むぎ)町内妻(うずま)海岸と海南町の大浜海岸で、ペンネームそのものの「はまあるき」をし、綺麗な貝を拾いました。私は日本貝類学会の会員で、貝類採集が趣味なので、取った貝の名前を図鑑で調べました。

内妻(うずま)海岸

 

 私は日本貝類学会の会員で、貝類採集が趣味なので、取った貝の名前を図鑑で調べました。

アズマニシキ マガキガイ タマキガイ (上の段右〜左)

ベッコウガイ ヨコヤマテンガイガイ ウズイチモンジ(下の段右〜左)

 

 夕刻4時ごろ、海部駅の近くの東屋で休んでいると、大きな手押し車を各自で押して、夫婦が入ってこられました。「どこから来られましたか?」と、「大阪からです。生まれは琴平の近くですが、定年退職して遍路しています」と。「すべて野宿ですか?」に、いとも簡単に「そうです」と。「宗教は真言宗ですか?」に、「いいえ、浄土真宗です。いま遍路は4回目で、お不動さんのみ廻っています。「どうしてお不動さんを?」に、「お不動さんのほうが静かで雰囲気があり、住職さんとも話ができますからです。一番の霊山寺にも併設されていて、そこが一番で四国全県に合計36寺のお不動さんがあります」と。

すぐ沖の奈佐(なさ)半島を左手に眺めながら歩いていると、学生と先生らしき人たち10人ばかりがなにやら浜で調査をしているようで、「何を調べておられますか?」とに、「こんなゴカイなど、なんでもです」と。「私は瀬戸内海の二枚貝の調査をしているのですが」と言うと、「ちょうどいい、この貝はなんですか?」と聞かれ、「たぶんシオヤガイです。瀬戸内海では見たことがないです」と。

宍喰の道の駅に着くと、近くは多くの若者で賑やかです。海面を見ると、100人以上のサーファーが点在しています。

道の駅「宍喰(ししくい)温泉」http://www.tokushima-kankou.or.jp/)で泊まれないかと聞くと、ここの宿泊所は満室で、4キロ先の甲浦(かんのうら)近くもやはりサーファーが多くて満室で、近くの弁天旅館が空いていると言うことで、紹介してもらいました。弁天旅館では遍路さんは宿代が割引で、一泊2食付でたったの6000円!夕食は魚尽くしで美味しいこと。洗濯物も、「受付のかごに入れて出しておいたら、洗っておきますから」とのこと。実にありがたいサービスです。

道の駅「宍喰温泉」から室戸岬まで  2007年9月17日

道の駅「宍喰温泉」から室戸岬までは約45キロ。旅館をまだ薄暗い6時半に出て、宍喰川の橋を渡っていると多くの人が鮎を釣っています。見物しているお年寄りに「引っ掛けつりですか?」と聞くと、「いや、えさ釣りです。えさはシラスみたいな塩漬けして白くなったさかなで、ここらではソレノレとゆうてます」と。

宍喰川での鮎釣り

 

甲浦(かんのうら)で杉本建設の前に接待所のテント。「お遍路さん、飲み物ご自由にどうぞ」とあるので、クーラーボックスから、深海層水のミネラルウオーターを一本。

東洋町では東洋大師の道標が多く目に付いたので、お参りしようと、寺の前まで行ったのですが、門の両脇の石垣にすごく大きな日の丸が2枚掛けてあるので感じが悪いので、この寺はパス。それから、延々と左手は大海原、右手は山の急斜面の単調な景色。

  室戸岬に向かう手前、野根から入木という村の間にゴロゴロ海岸と言うところがありました。なにも変哲ない海岸なのでゴロゴロ休憩所で昼寝をしました。風の強いときには岩がゴロゴロと音を立てるそうです。

 (注:ゴロゴロ海岸:「遍路道を辿る」(毎日新聞高知支局発行)によれば、「この海岸約4里は、人家も道もなかった。あるいたのはほとんどがヘンロであり、入木へたどり着く前に日が暮れると人命に関わる。このため藩は伏越(ふしごえ)に内番所を設け、昼までに到着した人のみに通行許可を与えていた」とのこと。

お坊さんと遍路姿のふたりが歩く様子

「遍路道を辿る」(毎日新聞高知支局発行)より

 

少し薄暗くなってやっと1キロ先に白い巨大な大師像がろうそくのように宙に浮いてるように見え、もうすぐだと足に力が入ります。中岡慎太郎(なかおか しんたろう)の像の脇の室戸岬バス停に着いたのはもう6時半でした。この中岡慎太郎の像はよく、坂本竜馬の像と間違われるのだそうです。この2日間は蒸し暑く、単調な道の歩きばかりで今までの遍路のなかで、一番きついコースでした。

(注:中岡慎太郎(なかおか しんたろう)1838 1867】は、日本の明治維新の志士 (活家)。陸援隊隊長。)

さて、阿波の国と伊予の国の遍路を終え、八十八ヶ所のほぼ半分すまして、自分にとって何が変わったかと聞かれたら、「半分悟ったような顔をしなければいけないかなと考えることが一番変わったこと!?」としか応えられません。悟りなど夢のまた夢です。確かに言えるのは「身体と心の健康にはいいです」と。「青い鳥」の物語に似て、悟りは遠い外の世界にあるのでなく、身近に見つかるものかも・・・と考えています。 

 

            

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