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朝5時20分、重いリュックを背負い玄関を出て、自転車でまだ真っ暗な道にライトを頼りに乗り出しました。心は新しいことをする緊張感とやっと願いがかなった喜びと半々。昨日散髪屋で丸めた頭(スポーツ刈り)があたる風にやや寒いのが難。出発までに防水の靴スニーカー代約9000円と登山用リュックサック代約13000円も含めて準備費用は約4万円。
五日市駅のプラットホームでコンビニで買ったおにぎり2個とポカリスエットで朝食。肉類や酒類はお遍路中は取らない方針。高松からの特急の指定席は駅員に任せておいたら、なんと一番前。列車の中で、長袖の白装束の上着(袖なしも用意)をはおり、頭陀(ずだ)袋と輪袈裟(わげさ)を首にかけるとまさに馬子にも衣装、一人前の修行者の気分。たったひとりで、一番前のドアーから畑の中のプラットホームに下りてぽかんとしていると、運転手が「切符をください」と言います。なんとここは無人駅なのです。前がよく見えるように粋(いき)な計らいで一番前の席なのかと思ったら、大きなリュックを背負って、一番前の運転手の所に行って切符を渡さなければならないからでした。 五日市駅を6時前に始発で出発し、約4時間後10時前にJR板東駅に到着。

JR板東駅
賑やかな所だろう期待したのに、日曜ということもあり店は一軒も開いてなく寂しく、第一番札所霊山寺(りょうぜんじ)までの間約500メートル、4〜5人しか人に会いませんでした。北のほう、県道2号線の北側に売店らしき大きな建物が見え、広い駐車場には車が次々に到着し、「南無大師遍照金剛、同行二人」と背中に書いてあるお遍路用の白装束(しろしょうぞく)の上着を着た人達が車の誘導をしていました。売店に入ると、菅笠(すげがさ)と本尊御影(ほんぞんおすがた)帳と金剛(こんごう)杖を合計6800円で買って、人でごったがえした店を逃げるように出ました。
(注:霊山寺の名の由来:釈迦が多くの説法を行い、多くの僧が修行していた所がマガダ国の霊鷲山【りょうじゅせん】。空海がその場を連想し、ここに天竺の霊山を移す意味で、霊山寺と名づけられた。)
(注:南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)とは、弘法大師に帰依(きえ)しますという意味で、遍照金剛とは空海の別名で、同行二人とは弘法大師と共に巡礼しますと言うです。)
菅笠にも同行二人などと書いてあり、雨の時でもいいように丈夫なビニールがかぶせてあります。本尊御影(おすがた)帳には、各お寺でもらえる姿絵(本堂の奥のほうに収めてあり、拝見出来ないことが多い本尊のスケッチ)が印刷された5掛け7cmぐらいの紙切れを収めるのですが、各寺の一番特徴のある建物の写真も載っていて、錦模様のきれいな布地の表紙で、3000円もするけどその価値はあります。金剛杖にも南無大師遍照金剛、同行二人と書いてあり、お大師様の身代わりなので、遍路の必需品で大切に扱わなければならないとか。金剛杖は杉の白木で、思ったより軽く安物っぽい感じ。ここの売店では約7000円の出費。広島の仏具店で買ったものと合わせる遍路用品代は計約2万3千円也。
いよいよ巡礼の開始。まず霊験のありそうな威厳のある山門の前で深く一礼。

霊山寺山門
境内に入るとすぐ右手に、綺麗な縁むすび観音が。私には関係ないけど、次男には・・・

縁むすび観音
少し進むと立派な多宝塔。当時の領主が権力の象徴として寺に奉納したものだそうです。上層は円形で、下層は方形で、美しい塔です。

霊山寺多宝塔
水屋で手を洗い、口をすすぎ、柄杓から水を少し飲みました(これは間違いで、手のひらに水をうけて飲むのが正しい)。礼拝手順は「四国八十八ヶ所」(主婦の友社発行、溝縁ひろし著)を何度も読んだのですが、なかなか完全に覚えるのは大変です。広い本堂に入ると天井には少しユーモラスな表情をした龍が。柱には画:東画伯の札がありました。

霊山寺天井画
本堂の中では、お坊さんが初めてのお遍路さんのための、遍路の心得を話しておられました。

霊山寺本堂内
本尊は秘仏で厨子に納められてみれませんが、その代わりに、その前に前立ち仏が安置されています。

本堂の前で、ローソクと線香3本に火をつけて立て、白い納札(これには年月吉日と住所と願意と名前と年令を書き入れ)を納札箱に入れ、お賽銭を100円投げ入れ(あとで聞いたのですが、投げ入れては失礼なのでいけなくて、静かに収めるべきでした)、読経(どきょう)を開始。初めての、我流の読経なので、ドキドキです。読経の手順は
@ 「うやうやしく御仏を礼拝したてまつる」と一礼
A
開経偈(かいきょうげ):「無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう) 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義」(無上の奥深い教えは遭遇しがたい・・・)
B 般若心経(はんにゃしんぎょう):「摩訶般若波羅密多心経(まかはんやはらみつたしんぎょう) 観自在菩薩 ・・・ 」
C
本尊真言:「のうまく さんまんだ ぼだなんぼく」(第一番札所霊山寺の御本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)なので、こう唱えます。本尊様への呼びかけ。)と3回
D
光明真言:「おん あぼきゃべいろうしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」と3回
E「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と3回唱え礼拝
F 回向文(えこうもん):「願わくばこの功徳(くどく)をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生(しゅうじょう)と、皆共に仏道(ぶつどう)を成(じょう)ぜん」
G 「有難うございます」
(以上「四国八十八ヶ所」:主婦の友社:荷に載っていたものです。)
まだ暗記していないので、経本を読みながらたどたどしく、小声で唱え終えほっと。持鈴(じれい)も読経のまえに2回、経文、真言のあとに1回、経文終了時に2回するつもりでしたが、時々抜かしたりしながらチリン、チリンもはさみながら。
次は本堂の右側にある大師堂(だいしどう)への参拝。大師堂は真四角で少し小さい建物。大師堂でもローソクと線香3本を立て、納札を入れ、本尊真言のみ省いて、同様に読経をしました。綺麗な庭の大きな池には見事な錦鯉が沢山泳いでいました。

霊山寺大師堂
そして納経(のうきょう)所で納経帳に奉納、釈尊、霊山寺、とさらさらと書いて、3種類の印鑑を押してもらいました。納経の代金は何処のお寺でも300円です。

納経帳(これは2巡目なので、重ね印がされています。)
『二巡目は破れすげがさ炎天下』
納経帖と一緒にご本尊御影(おすがた)という、トランプぐらいの大きさの印刷物をもらいました。

本尊御影(ほんぞんおすがた): 阿弥陀如来(あみだにょらい)
そして門を出て、くるりと回って本堂に向かって一礼。
(2008年9月、お礼参りに行った時、納経所で、お福分けという黒檀の数珠を頂きました。
これは、日頃お世話になっている人へのお土産だそうです。)
お福分け:黒檀の数珠
2巡目の前に、インターネットで 掛け軸用の四国霊場十三仏来迎図(定価19000円)を買いました。販売店はさぬき市の「詠智会」(電話:0120-459882)です。各県ごとに、この図にあるご本尊を祀った3〜4寺で納経することになっています。霊山寺のご本尊は阿弥陀如来なので、そこの枠に書字と朱印をもらいました。(掛け軸は高いので、まだ買っていません)たしかに、ご来迎をこのように想像することは心の安らぎになると思います。

四国霊場十三仏来迎図
『早春の頭すずしき霊山寺』
第一番札所霊山寺(りょうぜんじ)から第二番札所極楽寺まではたったの西へ1.4km。さあ、次は2番目の札所極楽寺(ごくらくじ)に、菅笠をかぶり金剛杖手に、まぶしいくらい明るいコンクリートの国道に繰り出します。霊山寺でもらった地図が解りやすく、これを見ながら。この地図「おへんろさんの道しるべ」はA3版の紺色のインクで印刷してあり、御所温泉の広告を兼ねたもの。金剛杖は元気なとき速く歩くにはむしろ邪魔で、水平に握って歩きます。(門の前に立っている方は私ではありません。知らない人がたまたま立っておられただけです。)

極楽寺山門
あっという間に着き、門をくぐると、お大師さんお手植えと言われる巨大な長命杉が眼前に突然現れ、上を仰いでも広い枝が邪魔しててっぺんが見えず、圧倒されます。

長命杉
触れると長寿をさずかるそうで、乳房のような膨らみをみんなが触るのでツルツル。私も手を伸ばしそっと。

長命杉下部
(注:長命杉は樹齢1100年以上で、高さは30メートル以上で、幹の周りは6m〜7mあるそうです。鳴門市の天然記念物。)
境内には白い雲を連想させる枯山水の、弁天さんを祀った雲海浄土のお庭。
弁天さんを祀った庭
第二番札所極楽寺から第三番札所金泉寺(こんせんじ)までは2.6km。国道に沿ってまっすぐに西に。途中、畑の畦道(あぜみち)の入り口に「へんろ道、金泉寺へ、」とある小さな立て札が見つかりました。地図にもないその細い畦道を進むと、金泉寺への境内への近道でした。

金泉寺手前の丁石
きれいなお庭の真ん中の石の太鼓橋を踏みしめ一度山門を出ました。

金泉寺山門
庭には弁慶が持ち上げたという力石がありましたが、以外と小さいので見落として、納経所の人に場所を教えてもらいました。

弁慶が持ち上げたという力石
行基上人が井戸より霊水の出るさまをみて、ここにお堂を建てて、名を金泉寺としたということです。この井戸を覗いて、顔が映れば92歳は生きれ、映らないと3日以内に不幸がおきるそうです。

黄金地蔵尊と黄金井

井戸を覗き込む人
(注:札所の開基について:1番から3番札所まで行基の開基と本に載っています。四国88札所のほとんどは空海が開基したものだと思っていたので、まず驚きです。数えてみたら、行基は88札所のうち、29寺を開基し、 空海は42寺を開基したことになっていました。多くのお寺は行基が開基し、そのうち廃寺となったお寺を空海が再興したものも多いそうです。)
(注:行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668年〜749年)は奈良時代の僧である。
父は百済系渡来人氏族の末裔一族の高志才智とされる。河内国大鳥郡(現在の堺市)の生まれ。681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業に活動した。民衆を煽動する人物であり寺外の活動が「僧尼令」に違反するとし、糾弾されて弾圧を受けた。741年月に聖武天皇が行基と会見し、東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果大きく745年に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。大仏造営中の81歳で入滅。)
第三番札所金泉寺(こんせんじ)から第四番札所黒巌山大日寺(こくがんざんだいにちじ)(大日寺は88ヶ所のうち3寺あるので、ここで区別するため山号もつけます)までは西北へ5kmと少し長い。単調な道を西に向かって歩きながら、間違っていないかと不安になっていると、初めて別のお遍路さんに追いつきました。その中年の小柄な女性に「この道は4番にいく道ですね」と訊くと。「はい、以前にこの順路はきた道で知っています。けど、納経帳を持ってなかったので、今回はきちんと納経帳を持って回ってるんですよ、お遍路のためにと思って、前からよく歩いてるんですよ」と。私は「急ぎますので、お先に」と言って足の回転数を上げました。

黒巌山大日寺山門
本堂の中にご本尊が見えたので、写真を撮りましたが、ガラス越しなのでぼけてしましました。これは新しい仏像のようなので、本物はその奥でしょう。

黒巌山大日寺本尊:大日如来
黒巌山大日寺の境内は花が多く、特に蓮の花が綺麗でした。

黒巌山大日寺の境内
(注:大日寺のご本尊は大日如来といい、空海の開いた真言宗において、最も重要な仏。弘法大師(空海)によると、「あらゆる宗教における神や悪魔は、すべて大日如来の顕現であり、大日如来の身体は宇宙そのものである。同時に、1粒の微塵の中にも大日如来は存在する。」)
第四番札所大日寺(だいにちじ)から第五番札所地蔵寺(じぞうじ)まではまっすぐ南への下り坂2kmですから楽でした。

地蔵寺山門
大きなたらちね銀杏全体を写真に取ろうと、取れる場所を探すのに苦心しました。枝が下がり、丸く繁っていました。

たらちね銀杏
地蔵寺の本尊が見れました。しかし、仏像が小さすぎて表情が解りません。

地蔵寺のご本尊
大師堂の壁の欄間(?)のような飾りが綺麗でした。他の寺院も昔は殆どがこのような極彩色の綺麗な建物だっただろうと想像します。予算がゆるせば、建物も、壁画もなるべく復元して見せて欲しいものです。

地蔵寺の大師堂
お寺の周りには店や食堂がいくつもあるだろうし、コンビニもあるだろうと思っていたのが大間違い。昼一時を過ぎてもなかなか食べ物にありつけません。やっと見つけたひなびた食堂に入り、おでん定食を注文。「肉類は入れないでください」と言うと、おばさんは「今頃お坊さんもお肉を食べますよ」と。「家では肉もどんどん食べているので、せめてここでは食べないことにしています」と返事。ゴマをかけたご飯と、小さな豆腐の入った味噌汁の美味しいこと。お客さんというより、近所の知り合いらしき人たち5、6人が、私が広島から来たというと、私を酒(ビール)の肴(さかな)に色々質問をしてきました。
第五番札所地蔵寺(じぞうじ)から第六番札所の安楽寺(あんらくじ)までは西の方へ5.3kmも。途中の民家の庭の梅やつばきの花が眼を楽しましてくれます。このお寺は「安楽」と言う名がついているので、お年寄りに非常に人気のお寺で、観光バスが何台かとまっていました。山門は竜宮城のような鐘楼門でした。

安楽寺山門
安楽寺山門の仁王像は立派で、珍しい形で左右の別々の建物に安置されています。

安楽寺山門仁王阿型

安楽寺山門仁王吽型
安楽寺本堂の中も極楽のような雰囲気です。

安楽寺本堂
ご本尊は近づいて見たり、近づいて写真を撮ったり出来ないのが残念。

安楽寺本尊:薬師如来
空海が修行中にイノシシと間違えられて猟師に矢でねらわれ、矢はそばの松の枝にあたりその枝が折れたが、空海は難を逃れた。供養に、その枝を逆さに植えたところ根がついたのだそうです。

さかさ松のある境内
山門の中に、その元のさかさ松の枯れ木が展示されていました。

元のさかさ松
(注:四国遍路はなぜ88ヶ所?煩悩が88あるからとか、男女子供の厄年の合計とか、空海が八大霊塔の土を持ち帰って、その倍数に撒いたとか、の説がありすが、定説はありません。『四国遍路と世界のの巡礼』(法蔵社)(2007)に、「・・・おそらく、観音巡礼の西国33ヶ所や、66部日本廻国、それに熊野詣の99王子などに導かれて、中世末期か、近世初頭に導入されたと思われる。・・・」という文章があります。この説が一番私には納得がいきます。ちなみに、文献では88の数は『せつきようかるかや』(1631年版)にある記載「四国へんとハ八十八か所とハ申すなり」が目下のところ古い。とのことです。)
第六番札所の安楽寺(あんらくじ)から第七番札所の十楽寺(じゅうらくじ)までは北西に1.2km。安楽寺を出るときはもう4時半。納経所は午後5時までしか受け付けてくれないので、大急ぎで緩やかな坂を登り、4時50分に竜宮城のような白い土台と赤い屋敷の門にたどり着きました。

十楽寺山門
中門もやはり竜宮城風でした。

十楽寺中門
その中門の二階に行く階段があるので、登ると愛染明王(あいぜんみょうおう)が祀ってありました。

愛染明王
【注:愛染明王;衆生(衆生)の愛欲煩悩がそのまま悟りであることを表す明王。本地(元の仏)は金剛薩埵(さった)。全身赤色、三目六臂(ろくひ:6腕のこと)で憤怒の相をなし、後に、恋愛成就の願いをかなえる明王として、水商売の女性などの信仰の対象ともなった。】
納経所に駆け込んで、「あとでゆっくりお参りしますので」といって、納経帳を。ゆっくり読経などしていると薄暗くなってきました。このお寺の庭に緑の大きな石で作った立派なテーブルとベンチがあり、そこで一休み。十楽寺も名前がいいので人気のお寺だそうです。第一番札所からここ第七番札所まで合計約18km。

緑紋岩のベンチ
JR鴨島(かもじま)駅で野宿(建物の中だから野宿とはいえないかな?)しようとボツボツあるきはじめました。国道はまっすぐ南なので街灯も多く、車も多く、懐中電灯はつけたり消したり。途中阿波(あわ)中央橋1kmを渡る時は風も強く、足も重く、もうトボトボ。金剛杖を竿(さお)で船を押すように、後ろの方へ力を入れて、もうすっかり第3の足のように使っていました。でも、お大師様は橋の下で良く野宿されたということで、この異常に長い阿波中央橋でも、杖は一切使いません。橋の歩道は薄い鉄板一枚で真下は川、風が強く細いゴムひもで固定された菅笠が飛ばされそうになり、手で持って歩きました。
道行く人に、ファミリーレストラン・ジョイフルが鴨島駅の近くにあると聞いたので、そこを目指していたのですが、その途中にお好み焼き屋が見つかり、よさそうなので、そこに入りました。注文したのは、シーフード・そばお好み焼き、1000円也。寒さに慣れようと、10日ごろ前から自分の部屋では一切暖房は使わなかったし、小雪の時でも小雨の時でも、よく10キロぐらいランニングしていたので、この夜間歩行でも寒さはあまり気になりませんが、やはり、お好み焼きの暖かいテーブルは有難いです。店主が「ぜんざいを作ったのですが、どうですか?」と、この遍路初めてのうれしいお接待。「お接待」はした人にも功徳があるので、断ってはいけないそうです。
鴨島駅(かもじま)につき、ベンチに座ると、向かいに75歳ぐらいのホームレスらしき人が一人。鴨島さん(仮名)が「ここで泊まりますか?」と。「はい」と答えると、「ここは表も裏も戸が閉められるから温いよ」とか「二人で寝れば、体温で二倍温うなるよ」とか言って嬉しそう。私も心強い。この鴨島さんは「広島のマツダの社長は外人でしたよね」とか、色々私に話しかけてきます。「お宅は元の仕事は何をしておられましたか」と聞かれたので「教師をしていました」と方便で。すると今度は「先生、広島の景気はどうですか」とか、「先生、先生」と言って次々質問をしてきます。私が「お宅はどこの出身ですか」と聞くと、鴨島さんは「ここからたった5里向こうが里です」と西を指差しました。
駅についてから、さらに3本ばかり列車が止まり、数人ずつ通勤客が降りてきました。何人かの人が「ただいま」とか鴨島さんに言ったり、あるいは鴨島さんがある若い男性に「もう仕事に就いてる?」とか言って、鴨島さんには顔なじみが多いようです。時刻表をじっと見ている人がいると、「次の上りは何時何分よ」とか説明し、夜遅くはいなくなる駅員の代わりに、まるでボランティアをしているみたいです。そういう訳か、キオスクの人や、掃除の人や、販売用の新聞配達が次々出入りするのに、みんな鴨島さんに「寒いね」とか声をかけています。私も負けじと、「こんにちは」と挨拶するので、彼にも私にも好意的な目で見てくれているようでした。駅から追い出されれば、軒下で野宿しようと覚悟していたのに。11時ごろになると、鴨島さんは自分のリアカーから家財道具一式の大きなポリ袋5個を駅の中に持ち込み、毛布をかぶって寝てしまったので、私も寝袋に入って寝ました。ベンチには手編みの赤っぽい毛糸のカバーがついたクッションがいくつかきちんと並べてあったので、寝ていても背中は全然痛くなかったです。
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