初代主任司祭エメ・ビリオン神父(1895−1924)
大阪毎日新聞「大隈重信とビリオン神父」(大正十五年五月二十九日)
来朝当時を語る師 「役人の目をぬすんで近寄った若者こそ・・・後の大隈重信侯であった」
日本渡来六十年。 それこそ文字どおり、南船北馬して神の道を切り拓いて進んだカトリック教徒神父・ビリオン司祭は、いま奈良市の一隅、
阿字万字町の天主公会堂に、静かに老後を養っている。 回顧する六十年!師の燃ゆるが如き殉教的精神は、二十万余の人々を神の前に拝跪せ
しむるに至った。 二十六日午前九時から、大阪川口天主教会で行なわれた師の日本渡来六十年祝賀式に臨んだビリオン司祭の喜びは、又、熱
烈な神への感謝の祈りに代えられるのであった。・・・師は、今聞くも尊い六十年の神の奉仕について慈眼をしばたたきながら語る。
「私はクラセの日本の歴史や、聖フランシスコ・ザベリオ師の書簡記等で日本に関する研究を始め、大学卒業と共にザベリヨ聖師の足跡を辿る
決心を致しました。 しかし、老いたる孤独の父と生別することは苦痛でした。それでも父は私の意を察してか、かえって日本渡航を勧めまし
た。・・・・私は、神の愛の使命を全うするために、如何なる苦難にも堪へ忍び、その目的を遂げるために、一命を神様に捧げる覚悟で ひと
りぼっちの父や親族知己と永久の別れを告げ合いました。」
慶応二年五月二十六日年来の宿望を遂げて、長崎の阜頭に足を踏み入れたとき、師の胸はただ喜びにりした。しかし、「折角来たの
に禁教時代で、日本人と交際することが出来ないのには、一番困った。」ある日、師のもとに四、五人の役人が来た。そのうちの若い小使いが、
役人の目を盗んで師に近寄り、「西洋の文物を知りい、研究したいから書物を譲ってくれ」と頻りに内々で頼んだ。
師は、その時、「おお、頼もしき若者よ!きっとお身達若者によって驚くべき新日本は築かれるであろう」と喜んで数冊を与えた。・・・
この若者こそ、やがて世界的に名を知らしめした大隈重信侯であった。
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