Fantasy Spirit 〜 読書感想4

あくまで個人的な感想なので、独断と偏見があると思います。
その点を留意の上でお読みください。上になるほど新着更新です。
末尾の日付は更新日。★は私のお気に入り作品です。

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『鳥姫伝』 バリー・ヒューガート★
『ヤン川の舟唄』 ロード・ダンセイニ
トガリ山のぼうけん3 『月夜のキノコ』 いわむらかずお
三つの魔法1 『オレンジ党と黒い釜』 天沢退二郎
『闇の底のシルキー』 デイヴィッド・アーモンド
プリデイン物語5 『タラン・新しき王者』 ロイド・アリグザンダー
『赤姫さまの冒険』 パウル・ビーヘル★
プリデイン物語4 『旅人タラン』 ロイド・アリグザンダー
『ウィンターズ・テイル』 マーク・ヘルプリン★
『真夜中のパーティー』 フィリパ・ピアス

『鳥姫伝』 バリー・ヒューガート★
訳:和爾桃子,ハヤカワ文庫FT(2002年3月)
カバー画:小菅久実
ISBN4-15-020308-3 Amazon
原題:Bridge of Birds(1984)

世界幻想文学大賞を受賞したチャイニーズ・ファンタジィ。鳥姫伝「ちょうきでん」と読むのだが、どうしても「とりひめでん」と読みたくなる。
唐の時代、万里の長城に繋がる防壁『龍枕(りゅうちん)』を名所とする、長閑な庫福(クーフー)村の子どもたちが謎の病に倒れた。このままでは子どもたちは意識を失ったまま、やがて死んでしまう。 医師でもある寺の菅長の弟子・十牛(じゅうぎゅう)は、助けを求めて北京へ行き、李高(リーカオ)老子と出会う。 李高の見立てによると子どもたち蠱毒を盛られ、解毒するには幻の薬草『大力参(だいりきじん)』なる人参しかない。 大力参は李高の宿敵である女帝・皇祖娘子(こうそじょうし)が隠し持っているという。
二人は危難に遭いながらも奸計を駆使して大力参を入手するが、それは大力参の一部でしかなく、子どもたちを目覚めさせるには量が足りなかった。 さらなる大力参を求めて中国辺土を旅し、知略を尽くして入手するが、大力参とともに手に入った、笛と水晶玉と鈴は何を意味するのだろうか。一時目覚めた子どもたちが口ずさむわらべ唄の意味するところは?
大力参を求める十牛と李高は、知らずしらずのうちに隠蔽された大力参の伝説に近づいてゆく。 李高は自分たちの時代に伝わる錯綜し歪曲された複数の物語の欠片から、秘匿された根幹を探ろうとする。
久しぶりに愉しんで読めた快作。昨今では私たちの実社会と同じような悩みを抱える主人公が、自分自身あるいは周囲に対して摩擦を感じ、何らかの回答を得ようとする異世界ファンタジィが多い。 そういった作品連とは趣きを異にしている。 リアリティを追求した結果、ファンタジィというものが本来もっている想像力(空想力)の翼が畏縮してしまった作品が多く感じられるなかで、物語を読む愉しさを味あわせてくれた。 並みの作家なら、この作品だけで三部作になりそうなところを、巧みに一冊に収めているのもうれしい。 最初は講談調の文体に慣れなく、風俗を理解し難いところもあるかもしれないが、気にせず読み進むべし。

アメリカ人の作者による、架空の中国唐時代に設定したファンタジィだが、実のところ最初は欧米人の東洋観に期待していなかった。 ところが読了したときには、この作品はいかにも中国の物語という感じがする。私には中国の歴史や文化が正しく書かれているかどうかはわからない。 私がいかにも"らしい"と思ったのは文化的な面ではなく、物語における想像力のダイナミックさにある。
巧く言えないが、例えば『西遊記』や『封神演義』(この二作品はあくまでも例えとして挙げたまでで、似ているからではない)などでは、仏教・儒教・道教的な意味合いを抜きにしても、 とてもあり得ない人間離れした離れ業をやってのける登場人物や、存在理由がハッキリしない魔物がポンと登場したりする。 理論的に説明できないし、また説明されない"奇妙奇天烈"さが面白味となっている。それが私には自由奔放な空想力の賜物に思われる。
この作品においては、李高を背負った十牛の尋常ならざる移動速度は、実際にはあり得ないだろう。だがそれが、力自慢の十牛という個性を強調しているし、作品に躍動感を与えていると思う。 また一癖も二癖もある登場人物のユニークさ。 普通なら主人公側の人間は善人なのだが、平然と詐欺をやってのける李高のキャラクターと、状況を打開するときの奇想天外なアイディアの数々。 どの人物も現実離れしているし、李高のアイディアも然り。 そういった、ともすれば荒唐無稽となりそうなところを、作者はリアリティよりも、躍動感に満ちた面白さを重視すべく挿入しているように思われる。

謎がさらなる謎を呼び、二人はいくつもの謎を解明しなければならない。 しかも子どもたちの命という時間制限という緊迫感がある。そういう意味ではミステリー・タッチだ。いったい鳥姫とは何者で、いつ登場するのかとやきもきするだろう。 ラストでは天界と地上界を越えた幻想的で壮大なパノラマが拡がる。冒頭からのドタバタというかユーモア・ファンタジィという印象から、このラストは想像できない。 この作品はシリーズなのだそうで、第二部以降の翻訳が待たれる。(2002.4.26)

UP

『ヤン川の舟唄』 ダンセイニ卿(ロード・ダンセイニ)
訳:原葵,国書刊行会バベルの図書館(1991年5月)
ISBN4-336-03046-4 Amazon
原題:Idle Days on the Yann

収録作:潮が満ち引きする場所で/剣と偶像/カルカッソーネ/ヤン川の舟唄/野原/乞食の群れ/不幸交換会/旅籠の一夜

エドワード・ジョン・モートン・ドラックス・プランケット(1878−1957)、通称ダンセイニ卿(ロード・ダンセイニ)は、アイルランドはダブリンの北方に位置するミーズ州の伯爵領に生まれた。 12歳時に男爵の称号を継承した第18代城主。南ア戦争と第一次世界大戦に従軍した軍人であるが、同時にケルト的な幻想小説や詩、戯曲を著した。 私はダンセイニは詩人、幻視者だと思う。また彼はチェスとクリケットの名手としても知られる。
なぜ作者のプロフィールを書いたかと言うと、プランケット一族は代々ケルトに住まわっており、従って作者もケルト文化に慣れ親しんでいた。 しかも他国を知る軍人で多趣味であることから、広い視野でケルト世界をみつめている。加えて当時流行ったインド文化圏などの東洋趣味や、交霊術による怪奇趣味などが、ケルト的世界に彩りを添えた幻想譚となって表われていると思う。
なお巻頭には、訳者によるエッセイ『エルフランドの黄昏     ダンセイニの原風景』と、ホルヘ・ルイス・ボルヘスによる『序文』がある。

●剣と偶像(The Sword and the Idol)
石器時代末期のある冬の夕暮れ。ロズという男が偶然に、鉄を発見し剣とした。 そしてロズは剣で部族間の争いを平定し、イズに取って替わって部族の支配者となる。 時は移り、ロズの一族のロドが剣の保持者・部族の支配者となり、イズの一族はイトの代になった。
ロドの一族を嫌うイトは、一人森の中で過ごすことが多かった。イトは森で自分を見つめた木を発見し、木を"カミ"と呼び、雷も飢饉もカミの御業であるとした。 カミを恐れた人々は、供物を捧げて崇め奉った。だが、ロドは自分よりも崇敬されるカミに不満と疑念、そして恐れを抱いていた。 イトは犠牲(いけにえ)が充分ではない、カミは大きな犠牲を求めていると神託する。
イズを見つめる木とは何か?これはイギリスやアイルランドの伝承や妖精譚を知っている人ならばわかる。 ただし通常の伝承や妖精譚では、人間は忌み嫌い恐れて近づかない。 人間がカミとして崇め称えていることが、この作品の一風変わったところだと思う。また人間の歴史と深く関わっていることも。 畏怖の念には違いないが、恐れて拒否するのではなく、この作品では恐れつつ受け入れている。 それまで目に見えなかった神を、目に見える"カミ"として、人間が生み出したことが重要なのではないか。 そこへ至る人間の心理こそ、ダンセイニ作品の特徴なのではないだろうか。

●カルカッソーネ(Carcassonne)
あるときアーンの地を治めていた若きカモラック王は祝宴をひらいた。ウィールド地方の人々は館へ集い、王と騎士たちの誉れを称えた。 壁には、カモラック王の楯と忠節ガドリオルの武器に挟まれて『アレルオンの竪琴』が架かっていた。この竪琴こそ、王と騎士たちを勝利に導いたものであった。 宴で王は占い師に予言させた。予言は、王がカルカッソーネへ行き着くことは決してない、ということだった。 アレルオンは語る。カルカッソーネ、それは歌にうたわれる古の麗しき妖精の都。
都には八千年生き続ける美しい魔女がおり、海から教わった世界で二番目に古い歌をうたう。 魔女は大理石の風呂の底に逆巻く川を眺め、風呂に血の色が見えると山々で戦のあったことを知るという。
しかしカルカッソーネを見た者はいない。王と騎士たちは、自分たちがカルカッソーネに辿り着いてみせようと、勇んで旅立つ。彼らはアレルオンの奏でる竪琴に導かれて、南へと進路をとる。 だが路は遠く険しく危険に満ちており、騎士たちは一人また一人と命を賭してゆく。長い放浪の歳月がすぎ、若かった王とアレルオンは年老いてしまうのだが。
伝説の妖精郷を求める騎士たちの物語、つまり騎士による探求物語である。 妖精郷が人間界と接していたが失われてしまう『エルフランドの王女』の後日談ともいえる。 だが、この作品では長きに渡る放浪ゆえに、騎士たち自身も伝説と化してしまい、すべては黄昏のなかに埋もれてしまう。伝説が新たな伝説を生み、やがてすべては黄昏のなかへと埋没するのだろう。
本来はCarcassonne=カルカッソンヌで、ブルターニュ地方の都市と同名なのだが、訳者は現実の都市と地上にはない都を区別すべく『カルカッソーネ』としたという。

●ヤン川の舟唄(Idle Days on the Yann)
アイルランドから来た私は、『川島号』に乗せてもらってヤン川を旅する。船は『ヤンの関門』と呼ばれる海辺の岸壁まで行く。 宝石をはめ込んだ鞘に入った三日月刀を持つ船長は、麗しのベルズーンドより来たと言う。 彼らの神は、位は低く小さくはあるが、飢餓や雷、怒りを鎮めるための戦争とは無縁であると言う。 船員はそれぞれの信望する神に祈るが、異なる神への祈りに憤激する者はいない。
マンダルーン、アスタハンへと上陸した私は、各地で神と人々との不思議な関係を知る。 やがて船は名高き都市ペリドンダリスへ着き、船長は持ってきた品物を取引し始めた。 夕刻になり、私は一人で都市を散策した。銀の寺院や縞瑪瑙の宮殿を見たあと、一本の象牙で造られた巨大な門を見た。 象牙の門のことを船長に話すと、それは以前にはなく人の手で造れるものでない、自然に抜け落ちたのだと言う。謎の巨大な獣を恐れた私たちは、急ぎ都を離れた。
船は雪原を源とするイリリオンの流れが奏でる音色、険しいグロームの岩、イルージァンの山々を過ぎ、ネンの町では『さまよい人』が、七年に一度ムルーンの峰から降りて来ていた。船はヤン川を下り続ける。
起承転結のあるストーリーではなく、アイルランド人の私による船旅の印象記。川路はときには南洋を思わせ、ときには北海地方をも思わせる。 すべては作者の想像の王国である。主人公はエルフランドを希求しており、そんな心の状態が垣間見る世界でもあるだろう。 目に見える世界そのままではなく、主人公を通して見た世界が繰り広げられる。 だから薄青い闇のなかで淡い燭光を発しているようであり、神々と人間は人知を超えた不可思議なベールに包まれている。

●不幸交換会(The Bureau d'Echange de Maux)
『万国不幸交換商会』という店は、パリの小さな通りに建っていた。この店ではお金を払って入店すると、誰かと不幸・不運・厄災を交換するという取り引きができる。 私はイギリスへ帰る前に、20フランを支払って入店した。私の小さな厄災の船酔いを、同じ程度の厄災と交換するためだった。 腹黒そうな老店主は、客のなかには死と生を交換する者もいると言い、私にもっと大きな取り引きを勧める。
私は一週間の間、日に二度通って、守備よく同程度と思われる厄災を持つ者をみつけて、交換することができた。 だが、新たな厄災は思っていたよりひどかった。私は店へと出かけたが...。
自分の厄災や不運がなくなったら、せめてもっとマシな厄災と交換できたら。自分の厄災より他人の厄災がマシに思える。 そう思わずにいられない人もいるだろう。そんな心の弱味に、巧妙に取り入ったのが『万国不幸交換商会』である。 だが本当に人の厄災は自分のそれよりもマシなのだろうか?
店主の老人は何者なのか語られないが、人心を惑わす者であることには違いない。彼を悪魔と言うこともできるが、それではあまりにつまらなすぎるので、やはり謎のままにしておきたい。 また厄災という形のないものをどうやって交換するのかわからないが、ともかくこの作品はアイディア勝ちだ。(2002.4.20)

UP

トガレ山のぼうけん3 『月夜のキノコ』 いわむらかずお
理論社(1992年6月)
カバー画・挿絵:いわむらかずお
ISBN4-652-01233-0 Amazon

『ゆうだちの森』の続き。 今晩もトガリネズミのトガリィじいさんのところに、孫のセッセとキッキとクックがやってきました。トガリ山への冒険の続きを聞くためです。
ヤマバトがタカに襲われ、ヒキガエルが妙な歌をうたう。ヒグラシがカナカナカナと鳴きはじめて、いよいよ日が暮れてきました。 テントは眠くなってきました。でもトガリィは歩き続けるつもりです。梢の上でトガリィたちが大きな月を眺めていると、若木の根元に金色の目が見えます。 あいつだ!とトガリィは思いましたが、襲ってきたのはあいつではなくキツネでした。トガリィ、絶体絶命のピンチ!
歩き疲れたトガリィがホウの葉の下に潜って寝ていると、「タロン、ケロン、ガロン、グロン」と、おしゃべりが聞こえてきました。 見るとおしゃべりしているのは、月の光を浴びたキノコたちじゃないですか。キノコたちはぴょっこん、ぴょっひんと跳ねながら、どこかへ向かっています。 トガリィがキノコたちの言葉を真似て聞いてみると、ゴロスケを探して帰るのだそうです。 次々に様々な種類のキノコが集まって、それぞれ行進しながら森の奥へと向かって行きます。ゴロスケとは何者?キノコたちはどこへ帰るのか?トガリィはキノコたちに付いて行くことにしました。
トガリ山を目差して出発した一日も日が暮れて、森は夜を迎えます。夜の森には、昼とは違う生き物たちが息づいていて、食物連鎖の危険と、昼の世界では知ることのない不思議さに満ちています。 トガリィはヒメネズミとの会話で、自分の臭さは身を守るための才能だと知ります。 生き物たちはそれぞれに違いがあり、生き方が違うのです。山鳩は山鳩なりに、ナメクジはナメクジなりに。 本作では様々な生き物の、多様な生き方ということが目立ちます。
今回はキノコたちのお話がメインです。月の光を浴びながら行進するキノコたち。白いキノコはナメクジを馬鹿にしつつ、実は苦手。 キノコにも種類があり、白いキノコは温厚なのですが、笑うだけのワライダケや、乱暴者のオニイグチたちとは仲がいいと言えないようです。 さて、キノコたちはどこへ行くのでしょう。月の照る夜の森で、いったい何が起こるのでしょうか?(2002.4.12)

UP

三つの魔法1 『オレンジ党と黒い釜』 天沢退二郎
筑摩書房(1978年6月)
カバー画・挿画:林マリ
8093-88024-4604

ルミとお父さんは、昔お母さんとお父さんが住んでいた家に引っ越してきた。ルミのお母さんは、ルミが生まれてすぐに亡くなった。 六方小学校へ転入した翌日は日曜日で、ルミとお父さんはピクニックへ出かけたが、『だんだらぼち』でお父さんが消えてしまった。 墓地には不気味な"黒いもの"がいた。墓地から逃げ出したルミはとき老人と出会い、李エルザ、由木道也、竜竜三郎、名和ゆきえ、森コージらの『オレンジ党』を知る。
この世界には三つの魔法があり、死の世界からくる<黒い魔法>、水に潜み動植物や大地の生命を奪う魔法。 よくも悪くもない<古い魔法>は土に住む。そして生命の源を司り、樹木に宿る<時の魔法>。とき老人は<時の魔法>に属している。
20年前、『グーン』と呼ばれる<黒い魔法>の手先がこの地にはびこっていた。 <黒い魔法>と<時の魔法>は戦い、ルミたちの母親らの活躍によって勝利を得る。 しかし10年ぐらい前に、また"黒いもの"が動き出した。 <時の魔法>は<古い魔法>の助力を得て、黒いものを5つの釜に封じたが、ルミたちの母親が犠牲となった。 最近<古い魔法>の動向がおかしい。とき老人とオレンジ党は、<黒い魔法>や<古い魔法>によって黒いものが解放される前に、5つの黒い釜を見つけ出して破壊することにした。 黒い釜の埋められた場所を記した地図は、<古い魔法>の牙城『千早台小学校』にあった。
オレンジ色のバッジをつけた、少年少女探偵団ばりのオレンジ党の活躍。子ども向けの溌剌としたファンタジィかと思いきや、ドキッとするほどダークなファンタジィ。 野草おにぎりとか時代背景は古いけれど、作品のトーンは古びていない。不気味な雰囲気や重さは現代にも通じるだろう。
木造の陸橋のある駅、未開地のただっぴろい野原、放置され草に埋もれたレール。 現代のちょっとした地方都市は、どこも同じように都市化して拓けていて、よほどの田舎でなければ見ることができない風景だ。 自然の豊かさや土地の起伏とは別に、ときにはガランと侘しかったり殺伐として感じられる風景が、物語のトーンとマッチしている。広々とした風景、田畑や牧草地を思わせる空気が懐かしい。

現在のファンタジィには、自分は何者なのか、自分は何を求めているか、自分の居場所はどこかという、いわば「自分探し」のテーマを扱ったものが多い。 そういう作品に慣れた人は、この作品が物足りなく思えるかもしれない。 だが初めから自分の居場所、自己の存在に確固たる基盤、やらなければならないことがあれば、そんな悩みの生じる余地はない。 「光と闇の戦い」と言うとありきたりだが、光であるべきオレンジ党員が使命をまっとうすることは、同時に母親の復讐を成し遂げることでもあるのだから。 光と形容するにはとても生臭いのだ。私がこの作品を"不気味"と言うのはこの点にある。 そのなかで<黒い魔法><古い魔法><時の魔法>が三つ巴に戦う。
この作品だけでは判然としないが、<古い魔法>はブルドーザーや塵芥処理所(研究センター)などの科学(化学)の力を取り入れている、あるいは取り入れようとしているのかもしれない。 そう考えると光と闇の戦いが何を意味しているのか、朧げながら浮かび上がってくるだろう。ただし<古い魔法>自体はよくも悪くもないのである。 「光と闇の戦い」という二元論と考えるには作者の書き方は微妙で、一概に割り切れないふしがある。

備考)『オレンジ党と黒い釜』→『魔の沼』『オレンジ党、海へ』の3部作となっている。現在はすべて絶版。(2002.2.25)
追記)2004年10月、ブッキングより復刊。Amazon

UP

『闇の底のシルキー』 デイヴィッド・アーモンド
訳:山田順子,東京創元社(2001年10月)
ISBN4-488-01316-3 Amazon
原題:Kit's Wilderness(1999)

おばあちゃんが亡くなり、一人になったおじいちゃんと暮らすべく、ストーニーゲイト村に移って来たワトソン一家。 おじいちゃんは孫のキットに、少年坑夫たちや記念碑の話をしてくれた。 坑内にも幽霊がいて、ランタンが消えたり炭坑夫の鼻がつままれたりしたら、それは愛らしく小さな『シルキー』の仕業だ。
おじいちゃんは亡くなった少年坑夫たちが、黄昏や暗闇時に川のそばで遊んでいる姿を見ることができると言う。 キットは目をすがめたり横目で見ると、少年たちの姿を見ることができた。そしてジョン・アスキューも。
キットは坑道の洞窟でアスキューが執り行う『死のゲーム』に参加する。だが先生にみつかって、アスキューは放校になる。
やがておじいちゃんが倒れ、アスキューが姿を消した。彼は長年、アル中の父親から折檻を受けていたのだった。 アリーはクリスマスに上演する雪の女王の稽古に励む。キットは黙々と古代の物語を書き始める。 キットは自分の書いた物語が古代の記憶であり、現在と古代が重なり合っていることに気づきはじめる。
死や闇を恐れると同時に魅せられる少年たち。 アスキューの死への憧れは、自分の存在意義を見いだせずに、自分が消えてしまいたいという願望による。 それは彼の家庭環境に起因していることがハッキリしている。 対してキットは、大好きなおじいちゃんの死を目前に感じて、なぜ死に魅せられるだろう? 最後まで読むと、死が"終りではない"ということはわかるのだが、死に魅せられた理由にはならないので、キットには共感できなかった。 それはたぶん主人公キットの個性が乏しいことによるのではないかと思う。
シルキーたち少年坑夫の存在や古代の物語が、この作品の魅力を醸し出しているのだが、にも関わらず読む側の感情に直接訴えるほどの存在理由が感じられないんだなぁ。 どことは言えないが、全体的に印象がぼやけていて、焦点が絞りきれていないように思われてならない。 これは訳の問題なのだろうか?
いまひとつ少年たちに共感できないなかで、生命力に溢れたアリーが個性的で頼もしい。 アリーの存在がなかったら、この作品の狙いであろう未来へ希望をもつこと、生命の尊さといったものが効果を上げなかったのではないだろうか。(2002.2.14)

UP

プリデイン物語5 『タラン・新しき王者』 ロイド・アリグザンダー
訳:神宮輝夫,評論社(1977年2月)
ISBN4-566-01019-8 Amazon
原題:The High King(1968)

『旅人タラン』の続編で最終巻。タイトルがすでに結末を語っている。 カー・ダルベンに戻ったタランとカーギはエイロヌイ王女に出迎えられる。そこにアヌーブンによって瀕死の傷を負わされたギディオン王子とフルダーが到着。 ギディオン王子の恐るべき剣ディルンウィンが、敵の手に渡ってしまったと言う。不可解なヘン・ウェンの予言。復讐心に燃えるアクレン。
モーナ王とグルーも交えた一向はディルンウィンを奪還すべく、一旦スモイト王の城へと向かう。 だが城はすでに敵の手にあり、タランたちは罠にはまってしまう。 そして遂にプリデイン全土を巻き込んで、旗頭ギディオンとタラン一党と、アローン軍との決戦の日が来た!信頼と裏切りが行なわれる戦いの勲。 戦いの果てにタランが得たものは!?
オールキャストで迎えるプリイデン物語の完結巻。しょっぱなから、「なんでこの人が死ななきゃいけないんだ」と思ったが、全き善人は生き残れないのである。 どうやら生に強欲な者でなければ生き残れないようだ。
訳者があとがきで巧いこと言っているので引用する(青文字斜体は引用部分)。 イギリスの作品は、人間の本質を探ったり、現実をつきぬけた永遠とか不死とかいったところに問題が向いていくことが多いようです。 ですから、アリグザンダーのファンタジーは、きわめてアメリカ的なものといえるでしょう(P352)。 これではわからないので私なりに補足すると、イギリスの叙事詩には哲学的に人間の本質を描くことが多い。自分ではどうしようもない"運命"に翻弄されたりとか、とかく運命論が持ち出される。 そして永遠に幸せな国や不死など、人知を超えた永久不変なものへの憧れもしくは恐れがある。
ところがプリデイン物語は、タランが全巻を通じて悩みながら何度も選択を下すように、運命を切り拓くのはあくまでも人間自身の意思による。迷いもまた自分のものでしかない。 魔法や不死などの摩訶不思議なものはあるけれども、最終的にプリデインから魔法が"強制的"に失せるように、それは必要とされなくなる。 使う者によって良くも悪くもなる、人知を超えた永久不変なものは排除され、すべては人間の理解できる域に留まる。 残されたのは不合理なものを排除した明快な世界、人間の人間による知識と力と信頼の世界。幸せも得るも失うも人間次第。
プリイデン物語は英雄を望んだ少年の成長物語ではある。 だが極端に言えば、異種族を駆逐して平定するためにはどうするか、という物語でしかない。 だから私にはファンタジィとは思えない。(2002.2.2)

UP

『赤姫さまの冒険』 パウル・ビーヘル★
訳:野坂悦子,徳間書店BFC(1996年9月)
カバー画・挿絵:フィール・ファン・デア・フェーン
ISBN4-19-860577-7 Amazon
原題:De Rode Prinses(1987)

1988年、文章で『銀の石筆賞』、イラストで『銀の絵筆賞』を受賞。どちらもオランダの賞。
12歳の誕生日に初めて城の外に出た赤姫さまは、馬車でのパレードの最中に盗賊にさらわれる。 盗賊は捕まえられたが、すでに赤姫さまが隠れ家から逃げ出したあとだった。 おばあさまと王様と王妃さまは、赤姫を探し出した者に賞金を与えるおふれを出す。 だが赤姫さまをチラリとも見たことがない国の民は、赤姫さまなんて存在しない、みんな城の人たちのお遊びだと騒ぎ立てた。 そしてお遊びにつきあって、城の人たちをからかってやろうと考える。
赤姫さまは城へ帰ろうとするが、泊まる場所や食事を得なければいけない。 そのために働かなければいけなのだが、侍女のラウラとパウラは都とは城のことで、都の外は他の世界としか教えてくれなかったので、何も知らないし何もできない。 しかも国の民は少女の言うこと、少女が赤姫だと信じてくれない。
お伽噺のような、どこか懐かしい雰囲気を漂わせる作品。 盗賊を捕らえる兵隊たちの姿がおかしく、他にもクスリと笑わせてくれます。 何が本物で何がニセモノなのか、真実と虚言がグルグルと入れ替わっていき、おもしろおかしくて最後はちっぴりせつない。 ですが、作者は単にお伽噺を現代に復活させたのではなく、とても現代人的に描いています。
例えば居酒屋でモミノキじいさんが、赤姫さまなんて存在しないというところ。 それまでそんなことを考えもしなかった人たちまでが賛同してしまうと、例え真実でなくても、人々にとって正しいことになってしまうのです。 また、赤姫さまがどんなに城のことを言っても、大多数の城の生活を知らない子どもたちは信じない。 多数決の論理の前では少数意見は圧殺されてしまい、多数の人々の知らないことは存在しないあり得ないこと、本当は真実なのに虚言とされてしまう。
赤姫さまの存在は否定され、少女は本当は赤姫なのに身分を隠してしまいます。 そのため自分自身を客観的に見ることができ、最後には自分以外の何者(姫という立場のことではなく)にもなれないことを知る。 それはあきらめではなくて、自分という人間の基盤となる強さだと思います。 王さまと王妃さまは自分が何者なのか知らないので、立場とは別に自我(と言うべきか)が揺らぎ、すぐに自分を見失っているのです。
真実と虚言が入れ替わる物語の中で、おばあさまが周囲に惑わされずに自分の考えで毅然と行動できるのは、自分という人間を知っているからではないでしょうか。 赤姫さまもまた自分を知ることで、安易に周囲に併合しない強さを持ち得て行動できるのでしょう。(2002.2.2)

UP

プリデイン物語4 『旅人タラン』 ロイド・アリグザンダー
訳:神宮輝夫,評論社(1976年6月)
ISBN4-566-01018-X Amazon
原題:Taran Wanderer(1966)

『タランとリールの城』の続編。 エイロヌイ王女と離れ離れになったタランは、離れて初めて王女を愛している自分に気づく。 しかし相手は王女で、タランは出自不明の豚飼育補佐にすぎない。もしも自分が高貴な生まれだったら求愛できるのだが...。 悩んだタランはカーギをお供に、己の出自を求めて旅に出る。
タランは、フラウガダルン山脈にある『フルーネットの鏡』が問いに答えられることを知り、希望を胸に一路フラウガダルン山脈をめざす。 だが、『フルーネットの鏡』へ辿り着くまでに、様々な試練がタランを待っていた。
プリデイン物語も次第に面白くなってきた。エイロヌイ王女にふさわしい高貴な家柄であることを望むタランだが、「真に高貴な人間とは何か」ということが問われる。 自由コモット人など、プリデインの世界がこれまでになく拡がりをもっている。 エイロヌイ王女とギディオン王子が登場しないのが残念だが、フルダーと妖精族のドーリが意外な姿で登場する。ドーリは相変わらず口が辛辣だ。
タランはドーリから『エイロヌイの角笛』に秘められた"力"を知らされる。しかし、それは一度しか使えない。 本当にいまが使うべき時なのか、これから重大な危機があるのではないのか? タランの葛藤が手にとるようにわかる。一度しか使えない力、しかも人の生死がかかっているのだが、その人をある意味において憎んでいるとしたら? これは迷うなと言うほうが無理ではないだろうか。 今回の旅でタランは大人になる。タランにとっては辛い旅だが、私はこれまでのシリーズのなかではいちばんタランに共感がもてた。
逸話にある多くの英雄物語では、無邪気で愛らしい子ども時代から、一挙に憂いを湛える大人=英雄へと変貌している。 子どもから大人への転換期が書かれていないために、両者の人物像が繋がらず違和感を感じることが多い。 『旅人タラン』は、私が感じていた違和感を埋めてくれた。プリデイン物語はやはり『英雄物語』だと思う。(2002.1.26)

UP

『ウィンターズ・テイル』 マーク・ヘルプリン★
訳:岩原明子,解説:高橋源一郎,ハヤカワ文庫FT(上下巻,1987年1月)
上巻:ISBN4-15-020093-9 Amazon
下巻:ISBN4-15-020094-7 Amazon
原題:WINTER'S TALE(1983)

19世紀末のマンハッタン。マンハッタンには時折り『雲の壁』が発生し、壁の向こうに何があるのか誰にもわからない。 雲の壁の近くハドソン川を隔てた沼地には、カヌーに乗り貝を採って生活するベイヨン・マーシュと言われる人々が、都市から孤立して暮らしていた。 ベイヨン・マーシュの人々に育てられたピーター・レイクは、彼らの間で成人とみなされる歳にマンハッタンへ向かって機械工となった。 しかし様々な事情から、やがてショート・テイルズ団員(盗賊団)となる。
ピーター・レイクはパーリー・ソームズ率いるショート・テイルズ団を裏切って追われていたが、偶然現れた白馬によって危機を脱する。 白馬を『アサンソー』と名付けたピーター・レイクは、泥棒に入ったサン新聞社の社主アイザック・ペンの屋敷で、アイザックの娘ベヴァリーと出会う。 恋におちた二人は、アサンソーに橇を引かせて、ペン家の人々とともにクリスマスを過ごすべく『コヒーリズ湖』へと向かった。

ある冬、食糧難となったコヒーリズ湖を出たヴァージニアは、赤ん坊を連れてマンハッタンへと向かった。 ニューヨークに辿り着いたヴァージニアは、サン新聞社の職にありついた。 サンフランシスコに住むハーデスティは"完全なる正義の都"を探して旅に出る。紆余曲折を経てニューヨークへ着いたハーデスティは、サン新聞社に務める。

百年の時を超えて、ピーター・レイクがマンハッタンに現れた。だが彼は記憶を失っていて、自分が何者なのかどこから来たのかわからなかった。 白馬アサンソーもまた人々の前に姿を現し、ひたすら時を待っていた。 新たな千年王国、20世紀を迎えつつあるニューヨークに、突然巨大な船が現れた。 ハーデスティとヴァージニア、編集主任プレイガーたちは船の正体と目的を調査するが、何も探り出せないでいた。折りしも市長選挙が始まり、プレイガーが出馬。 驚異的な寒波に見舞われたマンハッタンで、プレイガーの選挙演説は民衆を魅了し、人々はしばし冬の世界に浸り、穏やかに新千年王国の"黄金時代"を迎えようとする。
いよいよ新千年王国が始まろうとするとき、突如ニューヨークに暴動が発生。暴動を指揮していた者の正体は!? 謎の船の責任者ジャクソン・ミードの目的、彼らとピーター・レイクの関わりとは?
グランド・セントラル駅の美しい星座が描かれた丸天井(これは現在もあり、とても綺麗で典雅な趣きがある)から、ハーレム川の底部のトンネルなど、ピーター・レイクとショート・テイルズ団が、19世紀のマンハッタンを縦横無尽に駆け巡る。
泥棒の主人公。ベイヨン・マーシュの人々。恐ろしげな外見にも似合わず美しいものに憧れ、ついには高い塔のような宮殿と黄金の部屋を作ろうとするパーリー・ソームズ。 夢みたことが実現するヴァージニア。旅の途中でハーデスティが出会う、自信満々に言ったことが必ず失敗するジェシー。最後のベイヨン人アビスミラード。 サン新聞社と対立するゴースト新聞社のクレイブ・ビンキーなど、ディケンズばりの奇怪な人物が多数登場する。 私はどうしようもないほど俗物のクレイブ・ビンキーが好きだ。『ビンキー語録』なんて言われるほどだし。 魅力溢れた登場人物、そして時間的なスケールの大きさなど、全体的には独創的で面白く、ファンタジィというジャンルに捉われない作品。 ただ、現在のニューヨークの現状を考えると心中複雑だが...。

後半はストーリーが複雑になりすぎたためか、登場人物の多さのためか、彼らの魅力が生かされていないのが残念。 またジャクソン・ミードは何者なのか。そもそも彼はどこからどうやって力を得たのか。ムートファウルが存在するのに、なぜベヴァリーは現れないのか。 彼らを動かしている"意思"は、誰によってどこから来るのか。
おおよその見当はつくのだが、雲の壁とは一体何なのか、もっとハッキリ示唆してほしかった。地図になく辿り着くのが困難なコヒーリズ湖の役割り、これも説明不足のように感じられる。 いろんな謎がキチンと解明されていない(私が理解できないだけかもしれないが)ので不満が残る。
ハッピーエンドとは言い切れないラストより、私はハッピーエンドが好き、ということも不満の一つである。 いろいろ不満を挙げているが誤解しないでほしいのは、つまらないからではない。面白いからだ。 だからこそ、ちょっとしたところに引っ掛かりを覚えるのが惜しくてならない。

備考)現在、ハヤカワ文庫は絶版。(2002.1.26)。

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『真夜中のパーティー』 フィリパ・ピアス
訳:猪熊葉子,岩波少年文庫(2000年6月)
カバー画・挿画:フェイス・ジェイクス
ISBN4-00-114042-X Amazon
原題:WAHT THE NEIGHBOURS DID AND OTHER STORIES(1972)

収録作:よごれディック/真夜中のパーティー/牧場のニレの木/川のおくりもの/ふたりのジム/キイチゴつみ/アヒルもぐり/カッコウが鳴いた

なにげない日常生活の断片から、子どもたちの姿を鋭く描いた短編集。 いかにもイギリスの田舎らしい生活。そこで伸び伸びと暮らす子どもたち...と言うのとはちょっと違います。
作者は大人の観点から、理想の子どもの姿や、自分の子ども時代の郷愁を描いたりはしていません。 確かに子どもたちは生き生きとしているのですが、歓びのほかにも悩みごとや心配事、胸のうちに秘められた不安や葛藤がある。 ほんの些細なことで傷ついたり歓んだり、重大なんだけれども、胸の内にしまい込んである想い。 『キイチゴつみ』では少女ヴァルが、ちょっとしたことで喜びから悲しみに感情が移り変わります。
子どもの心がどういうことに反応してどう動くか。それらをサッと簡潔にしかも適確に表現する作者の筆力! どの短編も作者の細やかで鋭い観察眼に驚かされるでしょう。感情を誇大表現しないところに好感がもてます。

私の書いたあらすじは、ネタバレを防ぐために肝心のところは書いていないので、これではどこが面白いのかわからないと思います。 ですが短編の妙として、ラストがピリッとしているのです。全体的に甘くはありません、シビアーかな。 また、ちょっとしか登場しない大人たちの姿も印象的。
自然描写も秀逸で、私は特に『川のおくりもの』での真夜中の黒々とした川。 『カッコウが鳴いた』では、秘密の抜け穴を抜けて、茫々とした叢を掻き分けて行ったら、突然現れた見知らぬ景色。 自分にも覚えがあるので、とても懐かしく感じました。 作者は失われてゆく自然に郷愁の念を持っているのかもしれませんが、だからと言って美化や讃美していないように感じられます。 自然描写にも作者の姿勢が現れているのではないでしょうか。
●真夜中のパーティー
チャーリーは真夜中にハエの音で目が覚めた。こっそりと起きて、台所で水を飲んで何か食べようとしたら、そこには姉のマーガレットがいた。 マーガレットとチャーリーが台所でココアとチーズサンドを作っていると、真上の部屋のアリソンが音をききつけてやって来た。 アリソンは母さんが朝食用に作っておいたマッシュポテトで、ポテトケーキを作ろり始めた。 そしてまだ寝ている末っ子のウィルソンを連れて来て、仲間に入れようとする。ウィルソンはなんでも言いつけるからだ。さて、アリソンの計略とは?

●牧場のニレの木
枯れかけていつ倒れるかわからないニレの木が伐られることになった。 リッキーは自分たちの木が伐られることを、ウィリー・ジムに言った。ウィリーは一番の仲良しだが、学校では新しい遊び仲間に入っていた。リッキーも仲間に入りたかったが、まだ入れない。。 そこでリッキーは、仲間たちのリーダーに木が伐られることを教える。彼らは木が伐られるところを見たことがなかったので面白そうだ思い、みんなで見に行くことにした。

●川のおくりもの
ダンはロンドンから来た、いとこのローリーと川で遊んでいた。ローリーの水槽に入れるものを集めていたのだ。 ダンが生きている貝をみつけた。イシガイだ。ローリーは生きたイシガイを初めて見たので、ロンドンに持って帰って水槽に入れたいと言うが、帰るまでにはまだ日がある。 二人はブラスチックの容器に貝を入れて、川に浸していた。ローリーは貝を『タン』と名づけて、二人で毎日様子を見に来た。
ダンはイシガイをロンドンに持って帰るのは気が進まなかった。途中で死んでしまうかもしれないからだ。そもそもダンは、イシガイをそっとしておいてあげたかった。

●アヒルもぐり
僕はデブなのでソーセージと呼ばれていた。僕は泳げるけど、飛び込みはしない。そこでこの夏はみんなが、僕に『アヒルもぐり』を練習させようとしていた。 泳いでいて、アヒルのように頭から水中に突っ込み逆立ちをして潜る。それからしばらく水の中にいて水面に顔を出す。 コーチは白い布を捲きつけたレンガを水に投げた。白い布は水中でも目立つからだ。それを取って来るために、僕は恐々潜った。

●カッコウが鳴いた
夏の午後、バットは家族に知られずに裏庭から出かけようとしていた。ところがルーシーに見つかり、ルーシーの声でお母さんが気づいた。 お母さんはパットに、ルーシーのルーシーの面倒を看るように言う。パットはルーシーを連れて、運動場の秘密の抜け穴を通って川へ向かった。 いつもなら対岸に渡れないのだが、木が倒れて両岸を繋ぐ橋になっていたのだ。二人は木を渡り、初めて対岸へ出た。
パットは草花でティーパーティーを始めたルーシーにここで遊んでいるように言いつけ、一人で憧れの見知らぬ世界へと進んだ。だが、戻ってみるとルーシーがいなかった。(2002.1.19)

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