柴田方庵

号を方庵、実名は昌敦。寛政12年常陸国多賀郡会瀬村に柴田伝左衛門の次男として生まれる。14歳の時江戸に出て、医学と儒学を学ぶ。天保2年長崎に出て西洋医学を学ぶ。以後長崎で開業し、牛痘種痘の普及に力を尽くす。安政3年10月長崎で没する。

参考


柴田方庵の日記(日録)は、「西征日記」を含めると全部で7冊あり、いずれも原本は武田薬品杏雨書屋が所蔵している。

日録撮要は江戸から長崎へ向かう直前から長崎で没する1年前まで日記の抄録である。

「日録一」にその存在が示唆されている「日録首巻」は「西征日記」(『柴田方庵関連史料』に収録)であることは間違いないだろう。

日立市郷土博物館発行の方庵の日記の翻刻本の構成は、次のとおりである。


*それぞれに解題を付す


ビスケットと方庵

柴田方庵がよく知られているとすれば、それは社団法人全国ビスケット協会が定めている「ビスケットの日」に関連してのことである。同会は2月28日をビスケットの日としている。なぜこの日なのだろうか。

柴田方庵は水戸藩から長崎での外国情報の入手を依頼されていた。そのなかのひとつが「パン・ビスコイト」の製法であった。「ビスコイト」とはポルトガル語(biscoito)で、ビスケットのことである。方庵はその製法書を仕立て、安政2年(1855)2月28日(もちろん陰暦)に水戸藩士萩信之助宛書き送ったことが「日録」にある。これをもってビスケットの日としているのである。

柴田方庵は長崎を訪れた水戸藩役人萩信之助から安政元年11月に「船(汽船)製造之書」の入手と「パン・ビスコイト製造之事くわしく稽古いたし、書取ヲ以て江戸へ申遣わ」すよう依頼されていた。翌2年2月23日、方庵は「水戸より御軍用ニ相成候ニ付」オランダ商人へ「パン・ビスコイト両方稽古」に行った。翌24・25日にも弟子良庵を派遣している。そして28日に萩宛に製法書を送ったのである。以上は「日録五」にある。

ちなみに、「パンの日」は毎月12日で、江川太郎左衛門がパン焼き窯を作り、「1842年4月12日」に「兵糧パン」第1号を焼いたことにちなんでいるという。