| 1835年(天保 5年)【 0歳】 |
天保5年12月12日(太陽暦1835年1月10日)大坂堂島の玉江橋北詰にある中津藩蔵屋敷で生まれる。 |
| 1836年(天保 7年)【 1歳】 |
父百助死亡。母子6人藩地中津に帰る。 |
| 1854年(安政元年)【19歳】 |
兄三之助のすすめで蘭学を学びに長崎へ出る。 |
| 1855年(安政 2年)【20歳】 |
医者で蘭学者の大坂の緒方洪庵の適塾へ入門。 |
| 1856年(安政 3年)【21歳】 |
兄三之助が病死したため中津に帰り福澤家を継ぐ。 |
| 1857年(安政 4年)【22歳】 |
適塾の塾長(塾頭)になる。 |
| 1858年(安政 5年)【23歳】 |
藩命で江戸へ出府、中津藩中屋敷に蘭学塾を開く。
(慶應義塾の起源) |
| 1859年(安政 6年)【24歳】 |
横浜見物を契機に独学で英学を学び始める。 |
1860年(万延元年)【25歳】
|
咸臨丸で渡米、帰朝後幕府の外国方に雇われる。
最初の単行書『増訂華英通語』を刊行。 |
| 1862年(文久 2年)【27歳】 |
遣欧使節団に随行して、ヨーロッパ各国をまわる。
(フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルなど) |
| 1864年(元治元年)【29歳】 |
中津に帰り、小幡篤次郎ら6人の中津藩子弟を伴い帰京。
幕府翻訳方となる。 |
| 1866年(慶応 2年)【31歳】 |
欧州諸国を廻り見聞したことをまとめた『西洋事情』初編を刊行。 |
| 1867年(慶応 3年)【32歳】 |
幕府の軍艦受取委員随員として再渡米。 |
| 1868年(慶応 4年)【33歳】 |
時の年号にちなんで塾名を「慶應義塾」と定める。 |
| 1870年(明治 3年)【35歳】 |
中津に帰り母を伴って帰京。この時中津で「中津留別の書」を起草。 |
| 1871年(明治 4年)【36歳】 |
中津に洋学校(中津市学校)を開設。校長に小幡篤次郎を派遣。 |
| 1872年(明治 5年)【37歳】 |
『学問のすゝめ』初編を刊行。(明治9年の17編で完結) |
| 1873年(明治 6年)【38歳】 |
西洋式簿記の教科書『帳合之法』を刊行。 |
| 1874年(明治 7年)【39歳】 |
西洋のspeechを日本に広めるため、三田演説会を開始。 |
| 1875年(明治 8年)【40歳】 |
三田演説館を開設。『文明論之概略』を刊行。 |
| 1879年(明治12年)【44歳】 |
東京学士会院(現日本学士院)の初代会長に就任。
『民情一新』、『国会論』を刊行。 |
| 1880年(明治13年)【45歳】 |
社交のための結社「交詢社」を創立。 |
| 1881年(明治14年)【46歳】 |
「明治14年の政変」が起こり、福澤門下生が官界から追放される。 |
| 1882年(明治15年)【47歳】 |
日刊新聞『時事新報』を創刊。 |
| 1890年(明治23年)【55歳】 |
慶應義塾に大学部を設け、文学、理財、法律の三科を置く。 |
| 1892年(明治25年)【57歳】 |
北里柴三郎を助けて伝染病研究所の設立に尽力する。 |
| 1894年(明治27年)【59歳】 |
売りに出た耶馬渓の競秀峰一帯の土地を買い取る。
自然保護の先駆といえる。 |
| 1897年(明治30年)【62歳】 |
『福翁百話』刊行。 |
| 1898年(明治31年)【63歳】 |
『福澤全集』全5巻刊行。脳溢血を発病。 |
| 1899年(明治32年)【64歳】 |
『福翁自伝』『女大学評論・新女大学』刊行。 |
| 1900年(明治33年)【65歳】 |
門下の高弟数名に編纂させた「修身要領」を発表。 |
| 1901年(明治34年)【66歳】 |
1月25日脳溢血再発。2月3日東京三田の自邸で永眠。 |