目 次
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1 中国古代数学成就の1 4月15日
『編者の言葉』
『遠く古代における数学の萌芽』
2 中国古代数学成就の2 4月22日
『世界初の十進法と機械運算』
3 中国古代数学成就の3 5月16日
『《管子》《考工記》中の数学知識』
4 中国古代数学成就の4 6月 6日
『点、線、面、立体等の概念の形成』
以降乞うご期待
【編者の言葉】
中国文明の初め、我々の祖先は多くの数量に関する知識の創造と集積を行
い、数学は次第に発展し中国国民の得意な学科となった。我が国古代数学に
は輝く成果がある。
紀元前2世紀から西暦12・3世紀の千年余りの間、中国数学は西洋を遙
かに凌駕していた。《周髀算経》、《孫子演算法》、《九章算術》、《四元
玉鑑》・・・・・これら古代の数学の名著は、人類に遺された貴重な精神的
財産である。劉徽、祖冲之、秦九韶、朱世傑、沈括、徐光?らの数学思想は
中国を豊かにし、中央アジアへと伝わり、遠くはヨーロッパにまで広まった。
今回から、『科技史話』のコラムは『中国古代数学成就』を連載し、この
方面の状況について紹介していく。古の賢人に思いを巡らせることで後輩を
激励し、遺産を継承し、新機軸を開拓し、新しい中華文明を創造していく。
『遠く古代における数学の萌芽』
我が国の古代に「縄に結び目を作って記録する」「木を刻して文となす」
言葉がある。仰韶文化の遺跡から出土した彩色陶器に、既に数字に代わるも
のと考えられる符号が出現している。商代の甲骨文には、数字を表す13個
の文字が既にあり、10万以下の任意の自然数は原則上どれも皆甲骨文字を
用いて表すことができ、現代漢字の表示方法といくらも違わないものであり、
これらの記数法は十進法に従うものである。李約瑟はこのことを「総体的に
言って、商代の数字システムは古代バビロニアや古代エジプトと同時代の字
体よりも更に進んだものであり、科学的である」と称賛している。
中国人は洪水と付き合っていく中で、最も早く幾何の知識を掌握した。
《史記・夏本紀》の記載によると、夏の禹が治水を行ったとき、「左準縄、
右規矩」であったとされているが、これは、大禹の時代に既に測量の初歩的
儀器があったことを物語っている。また、神話伝説中において“規”と“矩”
は、どちらも上古時代の伏羲、女?の手の中に既に現れている。これは、規
と矩には悠久の歴史があるということを示している。後の考古学の研究で、
規矩、準縄(注1)などの道具は、春秋時代以前に、既に生産活動の各方面
で利用されていたことが示されており、まさに墨子が言ったように「諸々の
技術は、四角いものは矩、丸いものは規、真っ直ぐなものは縄、<正以懸>
(注2)」である。紀元前598年に楚の国は沂城を築き、紀元前510年
に晋の国は周城を築いたが、いづれも城壁の長さ・幅・高さを計算している
だけでなく、往復里程の労働力や食べ物といった必要な人手と材料について、
計算を実行しているのである。また、測量具の使用は幾何学の進歩を促した。
三平方の定理は、曲尺の使用から発見されたもので、《周髀算経》の中で
「折矩は、3:4:5で作られる(注3)」と述べられており、重要な計算
道具である算籌(注4)も、既に早くから人々によって使われていた。周代
に至り、『士』階級は教育を受けており、算籌計算を学ばなければならない
ものであったが、『籌算(注5)』は(礼、楽、射、御、書、数)の六芸の
うちの一つであった。春秋時代の早期に、かけ算の九九は一般常識となって
おり、当時の九九の表は今日使っている九九の表との差異はほんのわずかで
ある。それは、九九八十一から始まり、一一が一で終わる表である。籌算と
簡単な四則演は、西周時代またはそれ以前に既にあったに違いない、と推論
している。
黄帝時代、我々の祖先は黄鐘を完成させていた。黄鐘は竹製の管楽器であ
る。黄鐘の妙なところは、それが楽器であるばかりでなく、一揃いの計量制
度の始まりになっているところである。黄鐘の長さは9寸、横に切ったとき
の面積は9平方デシメートルであり、これを用いて楽器の音調の基音を確定
できる。黄鐘の体積を一龠とし、二龠を一合、十合を一升、十升を一石と定
めるのである。こうして体積の単位が確定した。黄鐘に黍をいっぱい詰め込
もうとすると、千二百粒は大丈夫であるが、その重さを十二銖とし、二十銖
を一両、十六両を一斤とする。このように、重さの単位も黄鐘をよりどころ
としているのである。黄鐘の発明は、音楽の楽律と長さ、面積、体積そして
重さという単位の初歩の統一を一体化したものである。《国語・周語》に、
『・・・・・是故先王之制鐘也,大不出鈞,重不過石,律、度、量、衡于是
乎生』とあるが、黄鐘が採用したいくつかの基本データ(例えば九と十二)
は、中国数学及び中国文化の中で最も重要な数字となっている。これらの計
量制度は、自然界の不変定数(例えば楽律)を標準にしている。今日、全世
界では、セシウムの原子の振動周期により時間の単位を決めており、光が真
空中を1/299792458秒で進む距離を1メートルと決めている。こ
れと、黄鐘による度量衡の基本単位の確定方法とは、何と似ていることだろ
うか!
注1 「規矩」はコンパスと大工の使う曲尺、「準縄」は水準器と墨縄
(中日大辞典 大修館)と書いてあります。この記事に言うのがそれ
に当たるかどうか判りません。
注2 意味がよくわからないので、そのまま書いておきました。漢文に詳
しい方、教えていただけると幸いです。
注3 記事には、「折矩以為勾広三、股修四、径隅五」と書いてあります。
辞典で調べたところ、直角三角形(中国語で“勾股定理”ですが)の
直角をはさむ辺のうち、短い方を“勾”、長い方を“股”、直角に対
する辺を“弦”と呼ぶようです。
注4 昔、計算用に竹・木・紙などの小片に数字を記したもの
注5 数取り棒で計算すること
『世界初の十進法と機械運算』
中国は世界で最も早く十進法を採用した国である。商代の甲骨文中には、
早くも十進法の記数法があった。春秋時代に発達した籌算は十進法を使って
完成したものとなった。1954年、長沙の左家公山にある戦国時代の墓か
ら、長さの揃った竹の棒40本が出土したが、これが算籌の実物であった。
算籌は数を表現することができる。これらの算籌を組み立てた符号を更に組
み合わせ方を一歩進めると、任意の自然数を表示することができる。具体的
方法だが、一の位の数は縦式を用いる、十の位は横式、百の位は縦式、千の
位は横式、・・・つまり『一縦十横』、『百立千僵』である。このような並
べ方は、つまり十進法を採用しているということである。違う位を縦横で分
けて算籌を置くという方法は、当時の人々が既に、同じ数でも別の位にあれ
ばその意味は違うことを知っていたことを物語っている。《墨子》は次のよ
うに言っている『一少于二而多于五,説在建位』。この意味するところは、
『一』が一の位にあるときと十の位にあるときでは意味が違い、二より小さ
くなることもあれば五より大きくなることもある、ということである。
十進法は簡便な一種の記数法であり、籌算は有効な道具である。この両者
はどちらも中国が世界に対して行った大きな貢献である。同時代の各古代文
明において、中国のみが十進法を使っていた。古代ギリシャの偉大な学者ア
ルキメデスが表音文字のシステムを用いて、苦心惨憺して大きな数を表記し
ていたとき、中国人は既にこのような大きな数を『籌を用いて数え』ていた
のであり、『計算の巧みな者は、籌を用いずに数える』ことすらできたので
あった。当たり前のように見ている十進法がなければ、比較的大きな数をス
ッと表すことは困難である。世界には現在も一部原始的な発達段階である部
族がいるが、10以上の数は全て『たくさん』と呼んでいる。おそらく、適
当な位取りの方法を持っていないことと関係があると思われる。
現在、全地球上で通用している1、2、3、4、5等のいわゆる『インド
−アラビア』数字が出現したのはかなり遅くなってからのことである。イン
ドでは、『二十』『三十』といった十の倍数を表示する数字の記号が、西暦
六世紀にやっと存在した。そして、七世紀に至ってようやく完全な十進法を
採用したという証拠が存在するのである。この時代は、中国とインドの往来
が何の大変さもない状況になっていた。十世紀には、十進法はヨーロッパに
伝わり、その後の近代自然科学の振興のために、十進法は重要な基礎を与え
た。フランスの数学者ラプラスは十進法を次のように評した
『これは、一つの深淵で重要な思想であるが、今日、それが見かけ上この
ように簡単なために、我々は、その本当の偉大な事績を軽視してしまってい
る。
しかし、十進法の簡便性及びあらゆる計算に提供する多大な便利さは、ま
ぎれもなく、有用な発明中のトップの座に我々の算術を置くものとなってい
る。そして、この十進法が古代の最も偉大な二名、アルキメデスとアポロニ
ウスの天才の関心にとまっていたらということを考えるとき、これら二人の
業績はもっと偉大なものになっていただろう、と我々は思うのである』
進んだ計数法は数学の全領域に発展をもたらした。中国古代数学中の分数、
負の数、小数の概念、高次方程式と連立一次方程式の解法、代入法、連立一
次合同式の解法等、どれも籌算と十進法に関係がある。負の数の概念は『籌
で数える』過程で誕生し、遅くではあるが戦国時代に至り、人々は籌算にお
いて、紅籌で正の数を、黒籌で負の数を表していた。籌算法は後の時代の機
械運算法の前進と言えよう。
籌算法と十進法が完全なものとなったのは戦国時代であり、中国古代数学
はその輝く第一期に突入した。戦国時代の《法紀》に、ある農家の収支に関
する記述があり、その中で加減乗除の運算が既に用いられている。古代の暦
法において、回帰年や朔望月の日数の長さはいづれも整数ではなく、その非
整数部分は全て分数で表されており、暦法中既に分数の計算があった。幾何
学においても三平方の定理が既に発見されており、点、線、面、立体の概念
が墨家により唱えられていた。極限の概念は次第に明確なものへとなってい
った。最も重要なことは、《周髀算経》、《墨経》を代表とする永遠に伝わ
る数学の著作がいつ誕生したのか、ということである。
『《管子》《考工記》中の数学知識』
中国の古代、数学は社会生活のいろいろな方面に行き渡り、《管子》《考
工記》はどちらも数学の専門書でないばかりか、数学的知識を専門に論じた
ものでもないが、これらの書物に数学的知識が記載されているということは、
国の統治管理及び技術領域において数学には特別な役割があるということが
反映しており、古代社会の進展における数学が持つ積極的意義を現している
ものである。
《管子・七法》では、国家・軍隊を治めるのに“則、象、法、化、決塞、
心術、計数”の七法があると述べ、その中の“計数”が指すものは“剛柔、
軽重、実虚、遠近、多少である”と述べている。《管子》では、“計数に暗
く大事を為そうとするのは、船楫もなく水険を通ろうとするようなものだ”
と言っている。“法”も数学と関係があり、それは実際“尺度であり、墨縄
であり、規矩であり、衡石であり、斗斛であり、角量であり”、つまり、計
量における標準である。
《管子》には、度量衡及び計算方法に言及するところが多々ある。長さに
関する単位としては、里、歩、丈、尺、寸、制、匹、仞、施などがあり、体
積に関する単位としては、鼓、右、斗、豆、升、釜、鐘、区などがあり、面
積に関する単位としては、歩、畝、頃、方、里などがあり、重量に関する単
位としては、鈞、斤、鎰などがある。更に、書物中には、何種類もの単位の
換算が述べられている。《管子》の作者は、国を治める上で大きな働きをす
るものとして、数的根拠を極めて重視している。《管子・山国軌》には、次
のように書いている:“田に軌があり、人に軌があり、用に軌があり、人事
に軌があり、幣に軌があり、郷に軌があり、県に軌があり、国に軌があり。
軌数に通じることなく、国を治めることはできない”と。ここで言っている
“軌”とは、統計のことである。
《管子》中、演算に関連するもので主要なものは、1.整数の加減法、2.
乗法、3.正比例と反比例の問題、4.分数である。《管子》における数学
知識は、基本的に実用数学に属すものである。
《管子》と同様に春秋時代に誕生した《考工記》は、技術面から多くの実
用的な数学知識を述べている。《考工記》は、冶金、制車、制弓において、
多くのところで分数の概念を用いるまでに至っている。《考工記・六齊》に
このような記載がある「青銅の精錬において、錫が六分の一は鐘や鼎の製造
に用いられる。錫五分の一は刀斧を作ることができる。錫四分の一は戈や戟
を作ることができる」。器具製造の需要から、《考工記》中には角度の大小
を図る次のような単位が産み出されている。矩(90°)、宣(45°)、
[木属](67°30’)、柯(101°15’)などである。このほか、
《考工記》中にはいくつかの当時の標準容器の寸法が記載されており、作者
は既に寸法と体積の普遍的な関係を知っていた、と見ることができる。
《管子》と《考工記》が数学知識を述べているということは、古代中国人
が、政治(社会に対する操作)、技術(自然に対する操作)において、数学
科学の影響を極めて重視したということを物語っている。
『点、線、面、立体等の概念の形成』
中国の古代の数学は、実践的であることを重視したが、厳格な基本概念が
なかったわけではない。先秦時代の名著「墨経」中では、幾何学の基本概念
について、深く探求を加え、厳格に定義を行っている。
「墨経」は空間を“同じではない全ての場所”と定義し、また、東、西、
南、北、中を用いて印としている。「墨経」はさらに、低い所を基準として
高い所の高さを知ることを主張している。墨家は既に、東西、南北、高低と
いう空間の3つの概念を持っていたことが伺える。墨家は点、線、面、立体
など一連の幾何学概念を考え出しており、《墨経》において、それらは相対
的に、“端”、“尺”、“区”、“穴”と呼ばれている。
《墨経》では、更にその他のいくつかの重要な概念が現れている。例えば、
“平”は同一の高さを示し(“同高也”)、“直”は三点が同一直線上にあ
ることであり(“参也”)、“円”は一つの中心から等距離にある線で構成
されるものであり(“一中同長也”)、“方”は四つの直角で囲まれている
ものであり(“柱隅四雑也”)、円周上のどの点も、その円周上で接する一
本の確定した直線がある。これらの定義は、普通、操作上の説明をするとい
うことでも可能である。例えば、正方形は矩を用いて判別できる(“方、矩
之交也”)、円はコンパスを用いて描ける(“圓、規写文也”)などである。
《墨経》中の幾何学概念はかなり厳密なものである。その厳格さは、ユー
クリッドの「幾何学原論」に劣らないものである。そのため、墨家は先秦時
代に論理を重視した数少ない学派の一つである。「もし、墨家の論理に沿っ
て数学の発展が続いていたら、中国は早くに厳密な幾何学大系を誕生させて
いただろう」と認識している人もいる。しかし、墨家の論理及び理性の重視
という伝統は、中国科学史上において続くことがなかったのである。墨家学
派には他の学派の及ばない点がまだある。それは、経験を決して軽視してい
ないことである。彼らは物理学及び技術の領域で非常に大きな貢献をしてい
る。墨子本人、技術方面の造詣では魯班(注1)の下ではない。“道”と“
器”、“実”と“虚”は、彼らにより非のうちどころがなく結合された。こ
の伝統は、中華文明の発展に対し、特に科学技術の発展に対し、大きな意義
を持っている。というのは、後生の多くの偉大な学者に、墨家の伝統の影を
見ることができるからである。
注6 魯班:古代魯国の有名な大工の名前。大工の始祖として崇められた。

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