●「北限の茶園」   梶原茂兎悦

1.桧山茶の由来

 1730(享保15)年頃、多賀谷家21代の峰経という殿様の代に植栽されたのが始まりであると伝えられています。これは1730〜31年頃に描かれた城下町絵図に「茶園」と明示されていることでも、立証されます。
 勿論、大々的に茶畑として一般に植栽されたのは後世のことで、この時代は、殿様の自家用茶園として営まれていたようです。この峰経という殿様は、1729(享保14)年に秋田藩の国家老となって17年間その要職を勤めた人で、政治家でもあり文化人でもありました。更には、連歌・俳諧にも通じ古今伝授を受け継ぎ敬之堂梅坡と称し、茶道にも堪能な人であったようです。家中から愛沢伊良を京都に上らせ、千宗佐の門を三度も叩いて茶道の奥義を学ばせています。この頃(1732年)京都の宇治から茶の実を持ち帰って、高山の麓に自家用茶園を経営したのが、桧山茶の始まりであります。
 これから百年後の1839(天保10)年頃、多賀谷家の家老、石川官太夫が京都から新種の茶の実を持ち帰り、主君(睦貞)に計り、多賀谷家の茶園をはじめ、100戸の家中に命じて植栽させ、製茶法も宇治の手法を導入し、貧しい武家の内職としました。又、宇治から製茶師を招いて、技術の指導を受け、着々その成果が上がり、ついには桧山における200戸の人々が、各々の屋敷内や裏山の畑にも植栽したので、当時の栽培面積は10町歩余にも達したと伝えられています。いずれにせよ、明治維新の大変革に伴い、武士は職を失い、製茶業は武士の唯一の生業となったのであります。
 しかし、時代の変遷により武士は住み慣れた土地を離れることになり明治以降は桧山茶を守るために大変難儀をしたようです。又、第二次世界大戦中の食糧難にイモや大小豆畑と茶樹は掘り返され、戦後は経済的に採算のとれない作物として杉が植えられ茶園の荒廃は進み現在は30アールであります。

2.製品の販路

 主として、郡内は勿論、阿仁鉱山・小坂鉱山・花岡鉱山・大館方面に盛んに売られたようです。又、1891(明治24)年頃には、宇治から茶師を招いて技術の指導を受けたことも伝えられるほど、盛んに生産され、初秋の頃、瓶より取り出され精製され売り歩かれたようです。

3.北限の茶の意義

 茶の北限については、現在、製茶業を営んでいるところの北限であって、かって北海道にも茶を植栽したところがあったようです。又、仙台にも茶畑の地名があり、弘前には茶 畑町があって、東北では昔から茶の栽培はあったようです。県内でも湯沢、12所その他にも茶畑が在って、その名残に、茶の樹も残っているところもあるようですが、現在まで 二百数十年の伝統を守り続けて製茶業を行っているところは、桧山以北にはないということで北限の茶と称されているのではなかろうかと思います。しかも桧山茶は機械製ではな く「手つみ」「手もみ」による製茶法、つまり一筋に宇治系統の技術を伝えているところに、大きな意義があると思います。

4.桧山茶の特徴

 茶の栽培条件は、資料によると@年平均気温が12度C以上A年雨量が1400ミリ以上B水はけのよい台地、となっているが、桧山地域は@年平均気温が11度CA年降水量が1600ミリ以上B現在の台地はPHが 4.8〜5.5(茶樹の最適はPH5.0〜5.5)と最適地であります。さらに、積雪が多いので、雪が寒さから茶樹を守り、霧山の奥の渓流から朝霧の発生等により、桧山茶 は適度の渋みと甘味のあるのが特徴とされております。現在の園地は〔字茶園〕高山の麓にあり、北緯40度12分。改植その他はなされとおりませんので茶樹は250年以上 と推定されます。現在宇治系の茶として植物学的な耐寒性についての研究資料として、静岡、埼玉県や入間市、宇治市に提供されております。

5.茶摘みの時期

 桧山茶は八十八夜の頃、古葉を剪定し、それから1ヶ月後の6月初め頃より始めます (晩霜の恐れのない時期に剪定します)。そして8月下旬まで6回から9回摘みます。
 一番茶  6月(1〜2回)
 二番茶  7月(1〜2回)
 三番茶  8月(1〜2回)
 摘み方は一芯二葉の手摘みで、慣れた人で1日3キロ位、普通の人で2キロ弱です。       (能代市 梶原園々主)



[ 付 記 ]

 秋田県の能代市を初めて訪れた。平成11年の秋のことである。到着した日、夕食まで に暫く間があったので、市内を流れる米代川の方に散歩に出かけた。かって秋田杉がこの 川の流れを利して運ばれたという。そんな往事を偲びながら河口の方に向かって歩んでい ると、前方に雄大な日没の景が見えてきた。あかあかと燃えるような大きな夕日が、まわ りの空を茜色に染めながら、ゆっくりと日本海に沈んでゆく。太陽が見えなくなってから も空と海の茜色はなかなか消えない。私はしばし我を忘れて、この壮麗な自然のドラマに 見入っていた。この美しい夕日は私の心に深く刻印された。
 だが、これよりも更に強い印象を私に与えたのは、翌日に見た「北限の茶園」の状景で あった。事の次第はこうである。
 頼まれていた講演を済ませたあとで私は、会場となった「金勇」という、地方都市に珍 しい風雅なたたずまいの料亭で、心尽くしの昼食をいただきながら、帰りの飛行機を待つ 間を利用して、話しに聞いていた北限の茶園を見学したい、との希望を洩らした。急なこ とであったが、講演会を主催した淡交会秋田支部の役員の方々は迅速に対応して下さり、 郊外の霧山城址の山麓にある檜山茶園へと連れていって下さった。車で案内して下さった 神馬好道さんは、茶園の土が濡れているからと、長靴まで用意して下さった。
 檜山茶園の前で、園主の梶原さんが待ち構えていてくれた。
 檜山茶は270年の歴史を有し、かっては10ヘクタールもの茶園があり、茶農も200 戸を数えたが、厳しい時代の波に流されて、徐々に山林原野に帰り、いま残るのは30ア ールそこそこに過ぎず、それも山林化の危機を迎えている。土地の有効利用のため、茶樹 の間に花や野菜が栽培されている。生産量が少なく、限られた愛好者に頒けられるのみで あるから、地元でも、檜山茶の存在は知っていても味は知らない、という人も多い。  檜山茶園は、日本最北端の茶園であり、緑茶を産する茶園に限っていえば、世界最北端 でもある。この意義ある茶園を何とか守りたい、という気持ちが、今年73歳を迎える 梶原さんを支えている。機械力を導入するだけの広さがないから、昔ながらの手作業で茶 樹の栽培から茶摘み、製茶までがなされる。それがどれだけたいへんな作業であるかは、 農家に生まれ育った私には身にしみてよくわかる。奥さんと二人で続けてきたけれども、 もうやめたいと思うこともしばしばあるという。無理からぬことである。しかし梶原さん は、やはり自分たちにできる限りは、この茶園を守っていきたいと、ほほえみながら言わ れる。私はその姿を尊いと思う。
 檜山茶の味は、近代的に改良された技術をもってつくられた茶にはかなわない、と梶原 さんはおっしゃる。しかしその飾りのない、純朴な、昔なつかしい味は、人為的人工的な ものに慣れ過ぎた私たちの心に、天然自然的なものへの、言い知れぬ郷愁を起こさせるー そんな味わいの茶である。
 檜山茶については、種々の紹介がなされているが、ここでは梶原さんご自身が見学者の ために綴られた文を、ほぼそのまま掲載させていただいた。
(倉澤行洋)

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