明治24年(1891)、滋賀県大津町下小唐崎(現在の大津市)で日本中を驚かせる大事件が起きた。それが大津事件(湖南事件)だ。シベリア鉄道起工式に出席する途中で日本を訪れたロシアの皇太子ニコライを、警護にあたっていた巡査の津田三蔵が腰に下げていたサーベルで突然斬りつけた事件である。その後の裁判では、外交問題に発展する事を恐れた内閣が死刑を求めたのに対して、法律に基づいて普通殺傷罪の未遂犯を適用しようとする司法側との対立があったことは、あまりにも有名だ。
文化館所蔵の「大津事件関係資料」の中には、この事件の凶器であるサーベルやニコライの血をぬぐったハンカチ、ニコライが腰を掛けた床几(しょうぎ)や座布団のほか、津田の取り調べ調書などがある。殊にハンカチに付着した血痕は茶色く変色してはいるものの、明治24年の事件当時の様子を生々しく伝えている。
文化館には、揉み紙の作品や表具がいくつかある。この大半は、故松田喜代次氏が制作されたものである。松田喜代次氏は大正2年(1913)、京都の唐紙屋喜兵衛(唐喜)七代目常次郎の長男として生まれた。昭和6年(1931)に家業を継ぐかたわら、機械印刷の揉み紙(揉み紙模様を印刷した紙)生産に従事していく中で、手作業での揉み紙の良さを再認識した。第二次世界大戦後に当時の滋賀県草津町(現 草津市)に移り住んだ後は、制作の中心を揉み紙に据えることを決め、唐紙制作用の版木などの道具一式を東京にある「紙の博物館」に寄贈した。その一方で、県内の伝統工芸を受け継ぐ人々、近江雁皮紙の成子佐一郎氏、本藍染の森卯一氏、筆師藤野雲平氏らとともに、伝統技術の発展継承に力を注ぎ、昭和39年(1964)に県無形文化財「揉み紙」の技術保持者として指定された。
寂室元光は、東近江市永源寺高野町にある臨済宗永源寺派本山永源寺を開いた禅僧である。正応3年(1290)、美作国英田郡高田村(現 岡山県真庭市)に生まれ、貞治6年(1367)9月1日、78歳で遷化した。禅宗の例にならい、遺誡と遺偈を記したあと、持っていた筆を放り投げて息絶えたという。康暦元年(1379)、寂室の13回忌が営まれた。この時開眼法要が行われたのが寂室和尚坐像(重要文化財、永源寺所蔵)である。寂室は曲ろくの上に結跏趺坐し、両方の手は軽く握って膝上に置き、右手に警策を執る。口元には深いしわが刻まれており、その表情は厳しくも優しくもあり、寂室の人柄を伝えている。数少ない中世の塑像であり、製作年も明らかであることから大変貴重なものとして知られる。
構造は「井」の字形の木枠に小材や曲げ材を荒縄で巻いたものを加えて作った心木に塑土を盛って形を作ったもので、表面は布張りを施した上に黒漆を塗り重ねて彩色している重文の原本と同様の素材・構造とし、概観は褪色が進んだ現在にあわせて復元されている。
黒川翠山は明治15年(1882)に京都市上京区の呉服商を営む家に生まれ、62歳で亡くなった写真家である。父に代わって若くして家業を継いだが、18歳ごろから写真家を志して独学で撮影技術を習得し、明治39年(1906)に日露戦争戦捷記念博覧会に「雨後」を出品し、これが名誉銀牌を受けたことから、その名が広く知られることになった。当時はフィルム撮影ではなくガラス乾板といわれる無色透明のガラス板に光を感光する銀塩の乳剤を塗ったもの使用しており、写真乾板、乾板と呼ばれている。
説相箱は、僧具の一つである。僧具は僧侶にとって日常的に必要な道具であり、例としては水瓶や鉢、錫杖、如意や払子(ほっす)などがある。説相箱は、居箱(すえばこ)、据箱(すえばこ)、接僧箱(せっすばこ)ともいい、僧侶が法会に用いる衣や法具、表白文(ひょうびゃくぶん)などを入れておく木箱である。
蓮肉には二重丸(◎)の形をした蓮子(蓮の実)が11個、ランダムに配置され、蓮華文と唐草文の隙間には、小円が所狭しと打たれている。下段に目を移すと、無地の正方形と文様のある正方形で市松模様が構成されており、文様のある方は1辺が1cmほどの正方形の中に、3つの小円を規則正しく打ち込んだ魚々子(ななこ)模様が縦に5段横に2列に配置された非常に細かい技法が施されている。上下段の区切りとなる帯はボリュームをもたせた高肉で表現されている。
中央、やや盛り上がった場所に烏帽子を被ってスックと立つ男性が、何やら難しい顔で指図をしている。そして男性の向かって右側には、笠を被った袴姿の男たちが鋤(すき)・鍬(くわ)をもって黙々と作業をしている。また、左側には足を埋もれさせながら田植えをする女性が二人。
琵琶湖文化館には「友の会」というものがあり、歴史や美術に関心のある110名ほどの方が見学会や講演会、講座などを通じてお互いに研鑚し合い、また館の活動を支援して下さっている。平成19年(2007)には「伝統工芸の技を訪ねて−湖西路を中心に−」という見学会を開催し、高島市内の伝統工芸のうち、和ろうそく大與・攀桂堂・安曇川扇骨・高島硯を訪ねた。
屏風は空間の間仕切りとして、あるいは装飾として用いられてきた。屏風の員数(いんずう)、つまり数え方は「六曲一隻」であればパネルが6扇(曲)で一つの屏風、「六曲一双」が6扇(曲)で一つの屏風が二つで1セットという意味で、扇の数が二つであれば、6の数字を2に変えればいいということになる。
サイズは通常の屏風の3分の1ほどであるが、6扇をうまく使って屏風を作る行程がわかるように作業ごとに段階を設けて仕上げてあるので、格子に組まれた骨組みの様子や張り重ねられた紙の様子などを見ることができる。絵や文字が書かれた紙(本紙)だけでなく、何枚もの紙が重ねられた丁寧なつくりとなっていることが分かる。

日本に眼鏡がもたらされた時期は明らかではない。一説には天文20(1551)年、宣教師フランシスコ・ザビエルが来日した際に、周防国(山口県)の大内義隆(1507〜1551)に13品目贈った中に眼鏡が含まれていたというが、残念ながら現物は残っていない。
信楽焼の歴史は古く、1000年以上にもわたり生産を続けてきた、まさにわが国を代表するやきものである。中世から現在まで生産を続けている瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波立杭・備前といった窯は、わが国を代表する窯として位置づけられ、とくに日本六古窯と称されている。