淡海のたからもの(琵琶湖文化館の館蔵品)を紹介します    ※H23.1/24 新規更新しました。
 明治24年(1891)、滋賀県大津町下小唐崎(現在の大津市)で日本中を驚かせる大事件が起きた。それが大津事件(湖南事件)だ。シベリア鉄道起工式に出席する途中で日本を訪れたロシアの皇太子ニコライを、警護にあたっていた巡査の津田三蔵が腰に下げていたサーベルで突然斬りつけた事件である。その後の裁判では、外交問題に発展する事を恐れた内閣が死刑を求めたのに対して、法律に基づいて普通殺傷罪の未遂犯を適用しようとする司法側との対立があったことは、あまりにも有名だ。
  文化館所蔵の「大津事件関係資料」の中には、この事件の凶器であるサーベルやニコライの血をぬぐったハンカチ、ニコライが腰を掛けた床几(しょうぎ)や座布団のほか、津田の取り調べ調書などがある。殊にハンカチに付着した血痕は茶色く変色してはいるものの、明治24年の事件当時の様子を生々しく伝えている。
 しかし意外なことに、この資料群の約8割が事件後の明治31年以降のものである。それらには、負傷したニコライを介抱した呉服屋永井家の買収をめぐって、日本政府とロシアとの間で水面下での駆け引きが行われたことが記されており、近代政治史を物語る貴重な資料となっている。


揉唐紙風炉先「渋リズム」                           松田 喜代次 作
 文化館には、揉み紙の作品や表具がいくつかある。この大半は、故松田喜代次氏が制作されたものである。松田喜代次氏は大正2年(1913)、京都の唐紙屋喜兵衛(唐喜)七代目常次郎の長男として生まれた。昭和6年(1931)に家業を継ぐかたわら、機械印刷の揉み紙(揉み紙模様を印刷した紙)生産に従事していく中で、手作業での揉み紙の良さを再認識した。第二次世界大戦後に当時の滋賀県草津町(現 草津市)に移り住んだ後は、制作の中心を揉み紙に据えることを決め、唐紙制作用の版木などの道具一式を東京にある「紙の博物館」に寄贈した。その一方で、県内の伝統工芸を受け継ぐ人々、近江雁皮紙の成子佐一郎氏、本藍染の森卯一氏、筆師藤野雲平氏らとともに、伝統技術の発展継承に力を注ぎ、昭和39年(1964)に県無形文化財「揉み紙」の技術保持者として指定された。
 「渋リズム」は茶室で使用する風炉先屏風。柿渋の茶色に金色の曲線が鮮やかに浮かび上がった作品である。紙の上下の幅を3分割し、中段のみやや太くなっている。上下段には非常に細かな縦筋が無数に入っており、これをやや太めに割れた2本の横筋で束ねることで、まるでヨシで作られたかのような雰囲気がある。揉み紙は原則的には絵画や書、空間などを引き立てる存在であり、それ自体が華やかな存在感を与えるようなものであってはいけない。それでいて独特の存在感を持っているのであり、技術的には非常に高度なものを要する。松田氏は60年以上にもわたりこの絶妙な存在感を持った揉み紙を作り続けたのであり、伝統的な技術を受け継いだ最後の職人であった。松田氏を最後に伝統的な揉み紙制作の技術は途絶えたといわれている。

塑 造(そぞう) 寂 室 元 光(じゃくしつげんこう)像                  (模造)
 寂室元光は、東近江市永源寺高野町にある臨済宗永源寺派本山永源寺を開いた禅僧である。正応3年(1290)、美作国英田郡高田村(現 岡山県真庭市)に生まれ、貞治6年(1367)9月1日、78歳で遷化した。禅宗の例にならい、遺誡と遺偈を記したあと、持っていた筆を放り投げて息絶えたという。康暦元年(1379)、寂室の13回忌が営まれた。この時開眼法要が行われたのが寂室和尚坐像(重要文化財、永源寺所蔵)である。寂室は曲ろくの上に結跏趺坐し、両方の手は軽く握って膝上に置き、右手に警策を執る。口元には深いしわが刻まれており、その表情は厳しくも優しくもあり、寂室の人柄を伝えている。数少ない中世の塑像であり、製作年も明らかであることから大変貴重なものとして知られる。
 文化館が所蔵するのは、この重文寂室和尚坐像の模造品である。昭和58年(1983)の修理時に明らかとなった内部の構造や技法に基づいて県教委により制作された。構造は「井」の字形の木枠に小材や曲げ材を荒縄で巻いたものを加えて作った心木に塑土を盛って形を作ったもので、表面は布張りを施した上に黒漆を塗り重ねて彩色している重文の原本と同様の素材・構造とし、概観は褪色が進んだ現在にあわせて復元されている。
 模造品であったとしても、それが原本と同じ素材、技法、構造で作られたとすると、それは数百年後には今われわれが見ている文化財と同じ範疇で文化財として取り扱うことが可能になる。そして、模造品の制作過程における研究、試行錯誤は、未知の技術や文化を知る貴重な機会となってわれわれに大きな実りを与えてくれるのであり、これが更なる文化財の研究、保存、活用へとつながるのである。模造寂室像は、こうした考え方に基づいて制作された模造品の早い時期の例であり、れっきとした博物館資料なのである。


 黒川翠山は明治15年(1882)に京都市上京区の呉服商を営む家に生まれ、62歳で亡くなった写真家である。父に代わって若くして家業を継いだが、18歳ごろから写真家を志して独学で撮影技術を習得し、明治39年(1906)に日露戦争戦捷記念博覧会に「雨後」を出品し、これが名誉銀牌を受けたことから、その名が広く知られることになった。当時はフィルム撮影ではなくガラス乾板といわれる無色透明のガラス板に光を感光する銀塩の乳剤を塗ったもの使用しており、写真乾板、乾板と呼ばれている。
 黒川翠山が撮影したガラス乾板は、その死後ご子息によって文化館をはじめ、銀閣寺、平安神宮、京都府立総合資料館、東京都写真美術館など、撮影地に縁の施設等に寄贈された。文化館ではガラス乾板をはじめ、アルバム2冊、絵はがき集を所蔵している。ガラス乾板は大部分が比叡山を撮影したものであり、天候や光の差し込み具合によって姿を変える山並み、あるいは根本中堂、横川中堂など延暦寺の諸塔が撮影されている。アルバムの1冊にはこのガラス乾板と同じ系統の写真52点が収められており、もう1冊には琵琶湖の風景写真32枚が収められている。これは1922年に太湖汽船が就航させた「みどり丸」に乗船しての琵琶湖クルーズの様子を撮影したものであり、写真は3人の「モガ(モダンガール)」をモデルに撮影されたものである。3人のモガたちは、みどり丸に乗船し、デッキから紙テープを手に持って出港。竹生島に立ち寄り宝厳寺や都久夫須麻神社に参詣し、神社ではカワラケ投げをする姿も撮影されている。また、船室で食事をしたり、デッキに設置された双眼鏡で琵琶湖の風景を眺めたり、ダンスを楽しんだり、船を下りて釣りに興じる姿が残されている。このほかに、多景島や海津大崎、堅田浮御堂などの琵琶湖の風景を見ることができる。いずれの写真も大判で撮影されており、ガラス乾板を見るだけで、そこに写り込んだ被写体を包む光の輝きや空気感などが伝わってくるようである。
 説相箱は、僧具の一つである。僧具は僧侶にとって日常的に必要な道具であり、例としては水瓶や鉢、錫杖、如意や払子(ほっす)などがある。説相箱は、居箱(すえばこ)、据箱(すえばこ)、接僧箱(せっすばこ)ともいい、僧侶が法会に用いる衣や法具、表白文(ひょうびゃくぶん)などを入れておく木箱である。
 大きさは幅35.2cm、奥26.4cm、高さが13cmとなり、構造としては、木を用いて形を作り、側面と底板裏面は黒漆で、内側は側面・底ともに朱漆で塗る。そして外周と縁には銅製鍍金が貼られている。箱(身)の深さはおよそ8cmで下部は台となる。上下2段に分けられた側面を見ると、上段には蓮華唐草文があらわされる。箱の長側面を見ると上から見た姿の蓮華が3個配置されており、蓮華と蓮華をつなぐように唐草があしらわれている。蓮肉には二重丸(◎)の形をした蓮子(蓮の実)が11個、ランダムに配置され、蓮華文と唐草文の隙間には、小円が所狭しと打たれている。下段に目を移すと、無地の正方形と文様のある正方形で市松模様が構成されており、文様のある方は1辺が1cmほどの正方形の中に、3つの小円を規則正しく打ち込んだ魚々子(ななこ)模様が縦に5段横に2列に配置された非常に細かい技法が施されている。上下段の区切りとなる帯はボリュームをもたせた高肉で表現されている。
 本品の底板裏面には伝来を示す銘文があり、朱漆で「大永辛巳年吉月/東大寺/二月堂什物」とある。つまり、室町時代の大永元年(1521)に制作され、奈良・東大寺二月堂の什物であったことが記されている。昭和28年(1953)に文化館の館蔵品となったが、その間の経過は明らかではない。

三 上 山 蒔 絵 台 (みかみやま まきえだい)                    
 中央、やや盛り上がった場所に烏帽子を被ってスックと立つ男性が、何やら難しい顔で指図をしている。そして男性の向かって右側には、笠を被った袴姿の男たちが鋤(すき)・鍬(くわ)をもって黙々と作業をしている。また、左側には足を埋もれさせながら田植えをする女性が二人。
 これは、毎年5月ごろの野洲市三上で行われている「お田植祭」のルーツを表した作品である。三上の「お田植祭」の始まりは昭和の初めに遡る。大正15年(1926)に大正天皇が崩御、皇太子であった裕仁親王が即位して年号が「昭和」と改められ、皇位の継承を広く知らしめる即位の礼が11月10日、大嘗祭が同月14〜15日に執り行われることになった。大嘗祭は、天皇が即位後初めて執り行う新嘗祭(にいなめさい)のことであり、一世で一度しか行われない。ここで供えられる米は、事前に卜占(ぼくせん)で選ばれた斎田で栽培される。昭和の大嘗祭では、滋賀県と福岡県が斎田に選ばれ、滋賀県では早速その候補地を選定するために希望を募り、県下39箇所42名の申込みの中から、野洲郡三上村大字三上に決定した。斎田の所有者である「大田主」となった家だけでなく、三上村全体が喜びにわき上がったという。
 4月9日には奉耕手(ほうこうしゅ)と呼ばれる斎田耕作に従事する人100人(田植子18・田植歌唄子18・田植踊子18・苗配り9・太鼓打3・綱引4・予備30)が選ばれ、11日には鍬入れ式が行われた。知事により「瑞穂」と命名された籾種は苗代で順調に育ち、御田植祭は900人余りの来賓、14万人の拝観者が見守る中、6月1日から3日間かけて実施された。太鼓を打ち鳴らし、御田植歌を歌いながら苗は植えられ、畔では踊子たちが体を揺らした。県内では時代仮装行列や餅まき、青年相撲や徒歩競争、飛行機の奉祝飛行、花火の打ち上げ、活動写真の上映なども行われ、奉祝イベントがあちこちで催された。大津市・野洲町・三上村では3日間にわたり、江州音頭が続いたという。 実りの秋を迎えた9月16日には抜穂(ぬいほ)式が行われ、18日から刈り取り、収穫された米のうち白米3石、玄米5升が供納米として合計12個の唐櫃に納められ、10月16日に京都御所へ納められた。
 本品は昭和大礼悠紀斎田の記念として滋賀県が制作したもので、円山四条派の絵師であり江戸蒔絵の蒔絵師でもある芝田是真の息子・梅沢隆真(1874〜1953)によるものである。昭和の大礼以降も御田植祭は毎年行われ、多くの見物客でにぎわっている。

高 島 硯 (たかしますずり)                  
 琵琶湖文化館には「友の会」というものがあり、歴史や美術に関心のある110名ほどの方が見学会や講演会、講座などを通じてお互いに研鑚し合い、また館の活動を支援して下さっている。平成19年(2007)には「伝統工芸の技を訪ねて−湖西路を中心に−」という見学会を開催し、高島市内の伝統工芸のうち、和ろうそく大與・攀桂堂・安曇川扇骨・高島硯を訪ねた。
  高島硯は桃山時代、小田信長によって比叡山の焼き討ちから逃れた能登氏の末裔が始めたという。その材料は虎斑石(こはんせき)といい、石の表面に虎の模様のような斑文が現れるのが特徴。見学会でうかがった福井永昌堂は200年続く老舗であるが、ここに蓄えておられる虎斑石の原石がなくなってしまえば、高島硯が絶えるという状態に追い込まれていた。硯を制作するにあたって最も大切なのは、原石の形である。その形を見て、角を落としたり、表面を削ったりして形を整える。
 文化館所蔵の高島硯は昭和25年(1950)5月に館蔵品となった。大きさは縦85cm、横28cm、厚さ8cmの巨大な硯で、大人2人で持たなければならないほどの重量がある。
 高島硯に限らず、一般的に伝統工芸の分野は材料不足、道具不足、後継者不足から途絶えそうになっているものもある。こうした伝統工芸の存在を広く知らしめ、その製品を文化財として伝えていくこと、これも博物館の仕事なのである。

屏 風 (びょうぶ)構 造 見 本                  
 屏風は空間の間仕切りとして、あるいは装飾として用いられてきた。屏風の員数(いんずう)、つまり数え方は「六曲一隻」であればパネルが6扇(曲)で一つの屏風、「六曲一双」が6扇(曲)で一つの屏風が二つで1セットという意味で、扇の数が二つであれば、6の数字を2に変えればいいということになる。
 屏風が展示される場合は絵の描かれている画が来館者側を向いており、裏面がどうなっているのかを見ていただく機会はあまりない。また、見えるのは絵や文字と木製の縁だけで、絵の下がどういう構造になっているのかを見ていただくこともできない。そこで、文化館では六曲一隻の屏風の構造見本を平成18年(2006)に制作した。サイズは通常の屏風の3分の1ほどであるが、6扇をうまく使って屏風を作る行程がわかるように作業ごとに段階を設けて仕上げてあるので、格子に組まれた骨組みの様子や張り重ねられた紙の様子などを見ることができる。絵や文字が書かれた紙(本紙)だけでなく、何枚もの紙が重ねられた丁寧なつくりとなっていることが分かる。
 屏風の裏面には通常、鳥文や竹文などの唐紙(和紙に雲母や絵の具を使い文様を刷ったもの)が使用されている。屏風を数多く収蔵している文化館では屏風を閉じた状態でおおよその場所を決めて保存しているが、目的の屏風を探す際に裏面の唐紙の文様で見分ける学芸員もいる。同じ鳥をモチーフにした文様でも、細かな部分に違いがあったり、或いは同じ物が別の屏風にも使用されていたりと、実は裏面の唐紙を見るのも楽しみである。この構造見本にはサイズに合わせて小さな雀文の唐紙が張り付けられている。


(←膳所城)



  (彦根城→)






 今回紹介するのは「扶桑城郭志」という資料である。「扶桑」は、もとは古代中国において東方の海上にあるとされた神木という意味であったが、それが島国を指し示すようになり、日本の異称となった。「扶桑城郭志」は、日本の城郭についての記録、つまり城絵図ということになる。これは、東北から九州に及ぶ城郭の絵図と城主の変遷を記した「主図合結記(しゅずごうけつき)」という城絵図を手本に写したものである。「扶桑城郭志」には、近江では膳所城、水口城、彦根城が収載されており、膳所城は湖畔へ突き出た本丸と二の丸が特徴的であり、膳所藩四代藩主までの名を見ることができる。彦根城は湖水を引き込んだ堀があり、その中央に本丸、左右に東郭、西郭がある。なお、左下方に御殿場が描かれているが、ここに現在建っているのが彦根城博物館である。
 こうした江戸時代の城絵図を見てその時代をさまざまに研究するだけでなく、古い資料を参考に現在の姿を見直してみる、こうした作業を通してふるさとの歴史に触れるのも、歴史を勉強する一つの醍醐味ではないだろうか。

眼 鏡 (伝 霊元天皇所用)                 
 日本に眼鏡がもたらされた時期は明らかではない。一説には天文20(1551)年、宣教師フランシスコ・ザビエルが来日した際に、周防国(山口県)の大内義隆(1507〜1551)に13品目贈った中に眼鏡が含まれていたというが、残念ながら現物は残っていない。
 17世紀頃には、取り付けたひもで眼鏡を耳にかけるスパニッシュイタリアン型が世界の主流であったが、目鼻立ちがくっきりしている西洋人にとっては都合が良かったものの、西洋人に比べて鼻が低く顔の堀が浅い日本人の顔には合わなかった。眼鏡の安定が難しく、眼鏡が目に近づきすぎて、まつ毛がレンズに触れてしまうという難点があったのである。そこで日本人が発明したといわれているのが、鼻当てである。17世紀も終わり頃になると、わが国にも眼鏡を売る店が江戸や京都、大阪にでき、眼鏡がステータスシンボルの一つとして次第に普及していく。
 本作品は、霊元天皇(1654〜1732、在位1663〜87)が使用していたという眼鏡で、べっ甲製、レンズの大きさは直径7cmのものである。レンズとレンズの間にある猪目文(いのめもん:ハート型)の上部に蝶番が付いており、ここを折り曲げて鼻当てにしている。霊元天皇は後水尾天皇の子。後水尾天皇は江戸幕府が権力を顕示するようになった時期の天皇で、「禁中並公家諸法度」などの制定を通じて次第に増大する幕府権力を不満として退位している。霊元天皇は皇室再興をめざし、朝廷の典礼の故事復興に功績があったことが知られている。
 この眼鏡は久世通夏(1670〜1747)が霊元法皇から拝領したものであると伝わっている。また、この眼鏡が納められていた箱には久世氏の家紋である笹竜胆が配されており、その伝来の確かさを伝えている。
信楽矢筈口水指  (しがらきやはずぐちみずさし)         滋賀県指定文化財   
 信楽焼の歴史は古く、1000年以上にもわたり生産を続けてきた、まさにわが国を代表するやきものである。中世から現在まで生産を続けている瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波立杭・備前といった窯は、わが国を代表する窯として位置づけられ、とくに日本六古窯と称されている。
 水指というのは、茶道において茶碗をすすぐための水や釜に足す水を入れておく道具で、その材質としては、金属、陶器、磁器、塗物などがあるが、とくに、茶の湯では信楽焼の水指が高い評価を受けていた。名称にある「矢筈口」というのは、凹型にへこんでいる口のことで、弓道で使用する矢において弓の弦を引っかける部分である矢筈に似ている形であることから、その名が付いたという。口縁は幅広く、胴は基本的には円柱状の寸胴な形だが、四ヶ所に深さや大きさもまちまちなおおきなくぼみがあり、ぐるっと周囲から眺めると色々な姿を楽しむことができる。角度によっては全体が歪んだように見えることもある。胴には上から四分の一ほどの高さに一本の筋が入っており、これが全体の雰囲気を引き締めている。
 この水指は昭和29年(1954)に信楽町の個人から壺やすり鉢などとともに寄贈され、甲賀郡多羅尾村字古谷(現甲賀市)の古井戸で発見されたものであると伝わっている。信楽焼の茶陶として有名なものに、千利休が所持していたと言われる「一重口水指 銘柴庵」(東京国立博物館所蔵:重要文化財)があるが、「紫庵」の持つ重厚感とはまた異なる趣きがあり、滋賀県に残る古信楽を代表する作品の一つである。

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