鮭甘口切り身2切れ

298円 

[2月6日]


発酵燻製を作るべく、3ヶ月間冷蔵庫で熟成させた鮭を取り出す。発酵が進み過ぎているであろうことは、毎回の扉の開け閉め時の、夏場なら1km先の銀蝿だって駆けつけそうな臭いで予想はついていた。出してみると、組織表面もヌルヌルに融け、まるで納豆の粘液に漬け込んだようだ。やはり3ヶ月はチョイと長過ぎた。鮭の肉質自体、発酵向きではないようにみえる。
見通しは暗いけれど、とりあえず燻製してみる。念入りに煙をかけたものの、悪臭耐え難く、一口食べて投げ出す。臭いに堪りかねてスモーク前に切り身を水洗いしたのも間違いだった。すっかり味が抜けている。オマケにテーブルの上に放置したままベッドに入ったら、翌朝、頭痛が激しい。臭いアタリしたらしい。
再実験すべく2切れ入りパックを購入。一切れを熟成に回すつもりが、うっかり全部食べてしまう。胃袋はホッとしていたかも知れない。
この門外不出、秘伝『サカナの発酵燻製』については、多少の説明が要るだろう。製法と開発秘話は以下の通り。

[製法]
1)サカナの切り身を脱水シートに包み、冷蔵庫で寝かせる。
2)1ヶ月半ほど置くと乳酸発酵が進むので、表面のヌメリを拭き取り、
  分解が進んで融け出した個所も除去しておく。
3)軽く燻製にかける。2日目から食べ頃になる。

このメニューは、全くの偶然で誕生したものだ。昨年夏のある日、うちの冷蔵庫腐海深部から、脱水シートに包まれたタラの切り身を発掘した。入れっぱなしにして1ヵ月半。凄まじい臭気に、一度は廃棄処分を考えた。
が、しかしちょっと待て。これは発酵したのであって、腐敗ではない。琵琶湖の近所には『鮒鮨』という発酵保存食もある。発酵品なら食べられるかも知れない。心配なのはボツリヌス菌の発生だけど、完全な密封ではなかったから、嫌気性の菌が繁殖する恐れはないような気もする。問題があるとすれば、「どう調理するか」だ。ほとんどクサヤ状態だから、焼けばご近所に迷惑がかかる。
あれこれ思案した結果、燻製で誤魔化すことにした。匂いで臭いを相殺出来るかも知れない。早速やってみる。結果は、案ずるより産むが易し。舌先にピリリとくる刺激が実にスリリングで、今まで遭遇したことのない珍味だ。ツウの云う「フグはピリッとくるくらいでなくっちゃぁ」は、これだったのか。
しかし、一人で試食して悦に入っても客観性に欠ける。そこで、行きつけのレストランに持ち込み、事情を話した上、自己責任で味見してもらう。女性スタッフのS嬢には評判がよかったが、店長には敬遠された。『腐り際の魔術師』の異名を取る彼は、決して食材をムダにしないことを自負している。この企画に関心がない筈はない。ただ、3人の小さな子供も抱えており、それが二の足を踏ませたのだろう。
ついで仕事場でも味の批評を頼む。こちらは、4人の仕事仲間が遠巻きにするだけで、触れようともしない。私は彼らの慎重さの蔭に、人類の存続と繁栄を支えてきた、『種』としてのホモサピエンスの知恵を見たような気がした。
最後に、行きつけの沖縄呑み屋『山原船』を訪ねる。ここでは大変に好評で、あっと云う間になくなってしまった。常連客の一人は、くんくんと匂いを嗅ぎ、「うん、これは食べられる匂いだ。大丈夫だよ」と、自信に満ちた表情で口に運んだ。ここには、仕事場とはまた違ったタイプの人たちがいる。現在の人類の食卓の多様多彩ぶりは、彼らのような好奇心、冒険心に富んだ種族がいたお蔭だ。こういう人々の存在がなければ、我々の宴の席は、穀物と少量の野草類だけの、それはそれは単調で殺風景なものになっていたに違いない。
翌日、ちょっと心配になって、さりげなく山原船を覗く。夕べの顔ぶれが全部揃っている訳ではないが、悪いウワサもないようだし、ホッと安心する。
山原船の常連客にも「また作ってよ」と頼まれている。次回は基本に戻り、白身魚でやってみよう。