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『ハッコウの館』(註1)のくんくん娘に、車で、100年以上の歴史を刻む地元の和風温泉旅館に連れて行ってもらう。大牧場が続くバタ臭い風景を抜け、メインの道から丘陵の麓に入り込むと、眼前に日本庭園を従えた古めかしい建物が現れた。突然、『和』の世界に舞い戻ったようで、どこか懐かしい。
外見同様、湯殿も見事に古風だった。2、3人いた先客が入れ違いに出てゆき、物音も絶えた。それが特徴だという茶色く濁った湯に浸かっていると、ガラス戸の向こうで動きがあり、やがて男が一人入ってきた。が、その前から眠気を覚えていたから、ボーッとしていたに違いない。湯舟に身を沈めた彼の気配が、なんとなくフツーではない事に、暫く私は気付かなかった。
アンデス山中、カハマルカの温泉でピサロを出迎えたインカの皇帝アタワルパは、この残忍貪欲な侵略者に対して、一片の警戒心も抱かず、大いに彼を歓待した。けだし、『温泉効果』と云うべきである。フッと湯煙りが薄れた時も、「全身、えらくアートしてるなァ」と、私もまだ相変わらずのノホホン状態だったのだ。
が、浴室に入ってきたもう一人を見て、さすがにドキリとした。晒しを巻いた半裸体。明らかに入浴スタイルではない。もちろん旅館の下働きでもない。その彼がツーッと浴槽に近づき、ケータイを差し出す。受け取った男は、二言三言低い声で話すと、ぶっきらぼうに突き返した。最後に小さく舌打ちしたようでもあった。晒し男は後ろに下がり、なぜかその辺の洗い桶や椅子をキチンと揃え、そのまま浴室から出ていった。
私は、自分が仁侠映画の銀幕の中に居るのを知った。次のシーンが目に浮かぶ。脱衣場で怒号が上がり、それと共にガラス戸が蹴破られ、パンパンパンと天井に銃声が反響し‥。私の役回りはなんだ? 慌てふためいて、仕切り戸から隣の女湯に逃げ込み、騒ぎに輪を掛ける道化か。
いずれにせよ長居は禁物。風呂から上がる前に、気分はすっかり湯冷め状態だ。しかし、タイミングが難しい。逃げるようにして出ると、背後から声が掛かりはしまいか。かと云って、いつまでも御一緒しておれるほどの度胸を、私は持ち合わせていない。
幸い、先方はジッと瞑目している。今のうちだ。私はソーッと、しかし平静を装いつつ湯舟を出て、ガラス戸を開けた。そしてそこで大きく深呼吸、‥する筈だった。誰も居なければ。
ガラス戸のすぐ後ろに、先刻の晒し男。廊下側の扉の前と、脱衣場の中央には、ネクタイ取っ替えれば冠婚葬祭いずれも対応可能なファッションの2人が、睨みを利かせて立っている。私はビビった。が、引き返す方がもっとコワい。むんず、と肩を掴まれる不安に怯えながら、彼らの間をすり抜け、なんとか脱衣カゴに辿り着く。
それにしても、何という厳重な護衛だ。浴室の男は、鍛え上げた細身の体躯に、固く締った冷たく厳しい顔をしていたが、どこか大きな団体の中堅幹部なのかも知れない。まだ30代半ばに見えたから、多分、組織切ってのエリートなのだろう。
そんなことを想像しつつ袖に手を通していると、背後で何やら小声でボヤく声がする。浴室を気にしながら、上の者の気紛れをグチっているらしい。どんな職場であれ、使われる身に不満は尽きない。何となく私は同情した。ボヤきはすぐ終わり、黒服の一人が棚に近づいて脱衣カゴに手を伸ばす。おや、衣服を脱いで、カシラの背中でも流しにゆくのか。が、そうではない。彼は先客たちが散らかしたカゴをきちんと整え、洗面台も片付け始めた。どうやら、整理整頓にうるさい、しつけに厳しい組とみえる。
私は廊下に出て、くたびれたソファに腰を降ろし、くんくん娘が上がってくるのを待った。ずいぶん経って彼女が現れ、我々は温泉を後にした。その間、湯から戻ってくる者、、入りにゆく客、共に一人もいなかった。恐らくは、さりげなく人払いが行われていたに違いない。そうとも知らずに上がり込み、我々は呑気に湯に浸かっていた訳だ。しばらく走ったところで、その事に気付く。改めてゾーッとした。
註1:ハッコウの館は、「薄幸」ではなく「発酵」と書く。くんくん娘の棲家の別名で、酒蔵でも味噌蔵でもないのだが、なぜか食品がことごとく発酵するという。そのため、どんな物であれ、口に入れる前にニオイを嗅いで確かめるのが、この不思議の館のシキタリであるらしい。小泉センセ(あの「薄行」の御仁ではなく、「発酵」学の大家の方)に、一度、ご足労戴く必要がありそうだ。