水鉄砲

55バーツ

04年4月13日


 

 ナーンの町から戻り、そのままラチャニ先生の家族に連れられて、サンカムペーン温泉へ。そこの静かなキャンプ場で一泊し、夕方チェンマイに帰ってきたら、町はすっかり戦場に変わっていた。本番前の前哨戦でもエラい騒ぎだったのに、その比ではない。これがウワサに聞くソンクラーン(水掛け祭り)か。仏教暦で新年を迎えるこの期間、タイ国中が祭りで盛り上がる。中でも、チェンマイのそれは過激だと云う。

 すでにナーンでも、あちこちで水掛けは始まっていた。「ピー・マイ・カー」という挨拶と共に、小さな女の子が、手にした器の水をチョロッと掛けてくれたりした。サンカムペーン温泉から帰ってくる道中も、道の両側から我々の車めがけて水が浴びせられたし、また、ピックアップカーの荷台にドラム缶や水槽をデンと据え、撒き手を十数人乗せた水掛け車が走り回っていた。が、チェンマイ市内の騒ぎは、『祭りのノリ』というレベルを超えていた。目抜き通りは、歩道も車道も人と車でギッシリ埋まり、その上を、飛び交う水のアーチが覆っている。車道はすっかり冠水し、水が入ってエンコする車もポツポツいる。水鉄砲、タライ、バケツにホース‥。道具は何でもありだ。相手がTシャツ姿だろうがスーツにネクタイだろうが、容赦はしない。群集整理の制服警官さえズブ濡れ。特に若い女の子は格好の標的にされる。それにしても、知らぬ者同士が笑いながら水を掛け合っている姿は、どこか非日常的な眺めだ。普通は、水が掛かればケンカになるところなのに。見物がてら宿に戻ろうとした私は、100mもゆかぬうちにパンツの中までビショビショにされてしまった。狙い打ち、流れ弾が四方八方から飛んでくるから、逃げようがない。その中で、やられっぱなしでいるのも詰らない。私も武器を取って立ち上がることにする。

 水鉄砲といっても、日本でも見かける子供のオモチャから、ポンプ加圧の連発式、水タンクを背負った消防士スタイルまで色々ある。私は、単発式ピストンタイプを買うことにした。55バーツ。これでも、一気に半リットルの水を射ち出し、かなりの威力がある。大通りの向うまで、軽く射程に入ってしまう。そいつにタンクを繋いだのが消防士型で、本当はそちらが欲しかったけれど、やめた。ビンボー旅行者とは云え、一般のチェンマイ市民より、我々の方が多少は金を持っている。財力にモノを云わせて最強兵器を振り回すのは、フェアではない。そう考えたからだ。

 武器を持つと、途端に気分が変わった。「どっからでもかかってきなさい」という心境だ。圧倒的軍事力を誇るアメリカが傲慢に振る舞い続けるのも、何となく理解できるような気がした。人間的と云うより、これは動物的心理なのかも知れない。単発式水鉄砲だから、すぐにタマが切れる。と一転、気弱になり、水を補充すれば、忽ちまた強気。水の補給には苦労しない。通り沿いの商店がシャッターを開け、ホースを伸ばして水道水をじゃんじゃんバケツに注いでくれる。また、コイン式水道が一定間隔で大通りに設置されていて、絶えず周囲の誰かがポケットを探っては小銭を突っ込んでいる。これらのバケツの中には、大きな氷柱を放り込んだものも少なくなく、その水を浴びせられると思わずのけ反ってしまう。私も、流れ者の一匹狼から足を洗い、氷バケツの傍らに陣取ってセッセと冷水を射ち続けた。

 見ていると、無礼講のような水掛け祭りの中にも、暗黙のルールはあるようだ。バケツで頭の上から水を浴びせるのはOKでも、水鉄砲で狙うのは主に首から下。顔面攻撃は少ない。また、2階3階からの放水も殆どない。そして不思議なことに、中南米で盛んにやっている、ゴム風船を使った水爆弾も皆無だった。飛ばすのは水だけ。そして対等のポジションで、と云うことなのだろうか。

 ソンクラーンの前後、タイは最も暑い季節を迎える。正午前から日没頃まで、チェンマイでも通りから人影が消える。が、その猛暑にも拘らず、3時間も水を浴び続けていると体が冷えてしまい、日向が恋しくなった。見ると手足の指がふやけ、すっかり白くなっている。私は戦線を離れ、裏道を選んで宿に向かった。たっぷりと水を吸った着衣が重い。路地にも狙撃手がいるので油断は禁物。と、前方ばかり気にしていたら、後ろから来た水撒き車にやられてしまった。部屋に帰り、しっかりシャワーを浴びる。水掛けに使われるのは、なにも水道水ばかりではない。古都チェンマイを囲むお堀の、トロリと緑色に濁った水も、バケツで汲み上げ撒き散らされる。たとえお堀に近づかなくとも、水撒き車に積み込まれ、それが頭の上から降ってくるのだ。

 衣服も洗い、固く絞って身にまとう。この暑さだ。水さえ被らなければ、1時間もしないうちに乾くだろう。サッパリしたところで、表通りのセブンイレブンへ、ちょっと早いビールを買いに出る。狙われぬよう、人々の背後をコソコソと通り抜け、素早く店に入る。レジで取り出した紙幣は、充分な防水対策を講じていたにもかかわらず、ベッタリと濡れていた。