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所属するヒミツ結社の集会に参加すべく、午前5時前に起床。朝一番のヒコーキで西へ移動する。ひとまず実家に荷物を降ろし、身軽になったところで、ちょっと寄り道して前回の昆布屋さんを覗く。後の予定があるから、そそくさと品定めし、速攻で引き上げるつもりだった。が、ミスった。
急いでいる時、こういう店では、決して商品に愛のマナザシを注いではいけない。昆布なんてキラいだ。その名を聞けばムネが悪くなる。昆布と同じ空の下にいるだけでジンマシンが出る。でも、一生に一度の親孝行だと思って、厭々お使いに来たのだ。と、そんな顔をしなければならない。それは判っていたのに、うっかり、私は禁を犯してしまったのだ。
下町のダシ系商店を訪ね歩くようになって、良心的な店ほど、ご主人が会話に飢えている事実に私は気付いた。ひとたび同好の士である事がバレると最後である。店の商品と同様、『もうひっそりと枯れているナ』と見えた人物の表情が一変し、突然、その口から、昆布や節を語る熱い言葉がとめどなく流れ出すのである。それを遮って立ち去ることなど、ヒトとして出来るものではない。いや、それ以上に、話の内容が面白く興味深いので、こちらも時の経つのを忘れてしまう。
この時も、すぐ後の集会がなければ何時間でも聴いていたいほど、濃い内容だった。しかし、刻々と時間は迫っている。何度かタイミングを逃し、ようやく、ご主人の息継ぎの一瞬の空白を突く。私のいとま乞いに、「それは失礼しました。土曜日やから、他にお客さんもお見えにならんやろ思て、ついつい‥」と恐縮する彼に礼を述べ、昆布の詰まった紙袋を抱え、ダッシュする。会場に到着した時は、冬だというのにビッショリ汗をかいていた。
このように、ダシワールドには様々な落し穴が口を開けている。中でも一番コワいのは、栄養失調症の危険だ。この禁断の世界に嵌ると、あれこれ条件を変えて繰り返しダシを引いているうちに、夜もすっかり更けていたりする。そして何故か腹も減っている。考えてみると、夢中になって昨夜から丸一日以上、何も食っていない。が、もはや食事の支度も面倒だ。えいっ、寝てしまえ、ということになる。
ここで人は首を傾げるだろう。「出来たダシで、料理はしないのか?」と。それはダシ引き心理を理解していない発言である。絶妙の味に仕上がると、そこに他物を投入するなんてモッタイなくって出来ない。逆に、失敗作は、さっさと飲み干して葬り去りたくなる。結果、胃には液体だけが流れ込むことになる。
5、6年前だったか、南大阪で一家5人の餓死体が発見されてニュースになった。家の庭には、大きな穴まで掘られていたという。ケーサツは、家族が何か新興宗教にのめり込んだ果ての変死ではないか、という苦しい見解を出した。
私はピンときた。宗教などではない。恐らく、寝食を忘れ、一家を挙げてダシ研究に没頭するあまり、栄養失調から全員が餓死に至ったのだ。「そんなもん、途中でヤバいって気付くだろ」と云うのは、脳に栄養が足りていればこその思慮である。2度の私の経験によると、この症状のコワいところは、次第に思考力や集中力が衰え、現実感が希薄になる点にある。例えば、銭湯の脱衣場で裸になって始めて手ぶらなのに気付いたり、商品を手にレジを素通りしようとして呼び止められたりする。
ケーサツは、くだんの穴を深く掘り返すべきだった。そうすれば、昆布や鰹節の膨大な出涸らしが見つかったかも知れない。もちろん、分解しにくい昆布も時間が経てば土に返る。その場合は、周囲に較べて旺盛に繁茂する雑草が、事件のナゾを解く大きな手掛かりを与えてくれた筈だ。もっとも、捜査員にそれだけの想像力が備わっておれば、の話ではあるけれど。
一家に塩昆布やフリカケを作る精神的余裕が残っていたら、それをオカズにご飯くらいは炊いただろう。多分、命も落とさずに済んだに違いない。彼らの死と共に消えてしまったであろう、数々の成果が悔やまれる。コブドーもブシドーも、「死ぬことと見つけたり」 してはイケないのである。