交通費(往復)

320円

09年03月18日


 電車に揺られて「仕事場」へ向かう。エレベーターで最上階に上がり、模様ガラスの扉を押す。友人の厚意に甘え、このオフィスの片隅に、ワタシは自分のシゴトを持ち込んでいる。ここに来れば自ずと作業が捗る。エアコン完備の快適な職場環境も大きいが、それ以上に、黙々と働く社員の中に身を置くことにより、モノグサなワタシにも少しばかり勤労のパトスが湧き上がるのだ。

 けれどどうしたことか、今日はその『他力本願方式』が全く機能しない。室内でボーッとするのもツラいので、気分転換の散歩に出る。大通りの喧騒を避け、裏通りに回ったら、お世話になっている雑居ビルの裏側が建物ごしに見えた。なんだ、化粧タイル貼りは表だけか。裏側はモルタル風だ。大地震が来たら、ひとたまりもないな。
 その、ブラインドの下がる窓の向こう側では、みんなが脇目も振らずオシゴトしている筈だ。視線をずらすと、やや右下に、隠れるように開く小窓が目に入った。次の瞬間、そこから自分の顔が覗くのでは、と思わずアタマがクラッとした。

仕事場トイレの小窓:下から見上げると、まさに密室に開けられた空気穴。

仕事場小窓から:窒息寸前なら、排気ガスまみれの空気も、砂漠で出会うオアシスの水。

 かつてこのオフィスには、1人の有能な女子社員がいた。緻密かつ手際のよい仕事振りゆえ、友人の信頼も極めて高かった。ただ、クール過ぎるほどにクールな性格の持ち主で、ほとんど言葉も発しなければ笑顔を見たこともない。それこそ年に1回くらい、微かに頬を緩めたが、「××ちゃんが笑った」と、その日は友人も終日ニコヤカになるほどだった。多分、おバカな会話で盛り上がる我々は、ハナから相手にされていなかったのだろう。豪雪地帯で知られる彼女の出身地の酒は『辛口淡麗』 その酒に喩えれば、彼女自身は『無口淡冷』だった。

 ワタシは、過度のお喋りにも、極端な沈黙にも息苦しさを覚える。なので、どうかして2人きりになると、酸欠状態に陥った。そんな時はトイレに駆け込み、小窓に顔を寄せて外気を胸一杯に吸い込んだ。その酸素の美味かったこと!

 それゆえワタシは、密かに彼女を『脱酸素剤』というコードネームで呼んでいた。が、ある時、「それは少々失礼じゃないの」というお叱りを友人から戴き、反省して『エイジレス』に改名した。6、7年は勤めた筈なのに、殆どエイジングの気配のなかった彼女には、こちらの呼び名の方がピッタリかも知れない。