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出発の当日は、間際まで、荷物のパッキングと部屋の片付けに追われた。が、それも何とかケリがついた。となると、残るはネズミ対策だ。このまま何も手を打たずに部屋を出れば、落城は時間の問題である。流しの下の床板の守りだけでも、何とか固められないか。その気になれば、ネズミは押入れの天井だって喰い破るだろう。床板を防衛したところで、僅かな時間稼ぎに過ぎないことは判っている。しかし、敗けは覆せないとしても、一泡吹かせてやりたいではないか。
では、どうすれば排水パイプ周りからの侵入を防げるのか。あれこれ考えていると、フッと閃いた。キャンプ用の小さな丸い焼き網が、台所に掛かっている。あの網に、パイプの径の幅でU字型の切れ込みを作り、パイプに差し込んで重いビンなどで押えればどうだろう。いくらネズミでも、針金には歯が立つまい。私は時計を見た。あと10分しかない。すぐさま工具を取り出し、作業に掛かる。と云っても簡単な工作だ。早速、出来上がったものをパイプに嵌め込んでみる。ドンピシャ! 床板を喰い破ったネズミは、その上の金網に歯ぎしりして悔しがるに違いない。これで、侵入を数日は遅らせることが出来る。ささやかな満足感を胸に、背にはアタックザックを担いで、私は部屋を後にした。それが3月半ばのことだった。
それから6週間。ネズミのやつ、今頃、わがもの顔で室内を走り回っているのではないか。備蓄食糧の中で、毎日、バイキングを楽しんでいるのではないか。大切な寝袋にションベンを引っ掛けたりしていないか。そんな光景が旅行中も繰り返し目に浮かんだ。
アパートに帰り着くと、1階の玄関口で向かいの部屋の男と一緒になった。
「ああ、しばらくですね」
「ちょっと旅行に出てたもんで」
そして挨拶の後に、期せずして、私はネズミの消息を聞かされた。何でも、2、3週間ばかり前から彼の部屋に現われるようになり、置いてあるものが片っ端から被害にあったらしい。食べ物は云うに及ばず、煙草の箱も齧られ、歯ブラシまで引っ張っていったそうだ。食後に一服ふかし、歯もきちんと磨いたものと見える。
しかし、ネズミとのバトルの日々は、思わぬ形で幕となった。ある日、何とトイレの中で溺死していたのだそうだ。「水を飲もうとしたんでしょうね」と彼。が、私は首をひねった。本当にそうだろうか。あれだけ智恵者のネズミが、そんなドジを踏むとは思えない。それに、そこまで文化的なネズミなら、ノドが渇けばコップ片手に水道の蛇口をひねるだろう。いくらなんでも、便器の水をすすったりはしまい。だとすると自殺か? 一瞬、そんな疑いが浮かぶ。何か哲学的な悩みでも抱えていたのか。なにぶんネズミは裸足だから、履き物を揃えて残したりはしない。『自殺』という確証は何もないのだが。もっとも、歯ブラシまで使うオシャレなネズミのことだ。身を投げるのなら、トイレなんかじゃなく、玉川上水あたりを選ぶだろう。だとすると、やはり事故だったのか。用を足し、水洗レバーに手を掛けようと便座の上で背伸びした刹那、足が滑って「チュ〜」という悲鳴も虚しく‥。
さいわい、ネズミはその一匹だけだったらしい。それ以降、天井裏を走り廻る音はしないと云う。私は、恐る恐る部屋の扉を開けた。室内は如何に? 荒らされてはいないか? が、見回したところ、目立った変化はなさそうだ。ホッと安堵する。出てきたままの部屋に、私は帰ってきた。この瞬間、旅は完結した。