高速夜行バス(熊本→大阪)

10300円

[5月7日]


阿蘇で開かれたマツリ(註1)の帰りに利用する。車体の振動とエンジン音で、寝苦しく長い夜を過ごす。ようやくカーテン越しに車窓が明るくなり、隙間から覗くと、折りしも夜明けの淀川を渡河中。梅田に入り、「あと5分ほどでナンバ到着です」のアナウンスが流れる。降車準備で車内もざわめき始めた。
 が、バスはミナミ付近を素通りし、やがて前方左手に、次の停車地の阿倍野のビル街が見えてきた。まあ、これは珍しいことではない。夜行バスの場合、余裕を見て運行しているので、早目に目的地に着くと市内をグルグル廻って時間調整することがあるからだ。今回もそのパターンだろう。
 と鷹揚に構えていたら、バスは阪神高速をどんどん突っ走る。そして平野(ひらの)を通り過ぎ、ついに大和川を渡ってしまった。どう考えてもこれはおかしい。間違えて奈良行きにでも乗ったか? しかし、さっき確かに「難波到着」と云ったのを聞いている。
 どこへ連れて行かれるのか不安になり始めた頃、ようやくスピードが落ち、バスは一般道へ着地した。標識の地名は「松原市阿保」 ずいぶん豪快な時間稼ぎで、とっくに到着予定時刻は過ぎている。これから朝の渋滞の中、下を通って市内に戻るとすれば、いったい何時に着くことやら。
 ところが、Uターンする素振りもなく、バスはなおも路地に割り込んでゆく。死に場所を求めて彷徨うゾウのように、細い十字路に突っ込み、左折しかけて後戻りし、直進しようとしてモタつく。ついには、一気に数百メートルバックし、民主党・某の選挙ポスターの脇で止まり込んでしまった。そしてそのまま、ジッと何かを考え込んでいる様子だ。
 この間も車内アナウンスは一切ナシ。車内に不気味な沈黙が流れる。乗務員も乗客も共に無言、という展開が日本的でコワい。熱帯圏の国々なら、こういう場合に考えられるストーリーは3つ。

 1) 運チャンが自宅、もしくは愛人宅に立ち寄り、途中で買い込んだ
   土産、あるいは副業で売り捌くフルーツや日用雑貨を降ろす。

 2)運チャンが乗客に向かって、目的地まで行きたければ追加料金を
払え、とオドシにかかる。

 3)乗客に紛れ込んだ強盗団、ないしは反政府ゲリラ、あるいはそれ
らと結託した運チャンの手で乗客はいずこへともなく連れ去られ、
身ぐるみ剥がれた上で蒸発する。

 乗客一同、固唾を呑んで成り行きを見守っていると、意外にも車内後方で動きが生じた。背後から婦人が一人、運転席に進み出たのだ。以下の会話は、ケチャ語でもタミル語でもタガログ語でもなく、レッキとした日本語で語られたものである。

乗客: 「あのぅ、ここで降りていいですか? うちはすぐそこなん
    ですけど」
乗務員:(運転手と相談した後)「いいですよ。(高速の)降りるとこ、
    間違えたけん」
乗客: 「‥迎えが、阿倍野で待っていると思います」
乗務員:「ハハハ、そりゃ電話せんとね」

 どうやら単なるポカだったようである。ともあれ、バスはオバさん一人を降ろし、再び高速に乗った。阿倍野を通過し、やがて懐かしの難波が近づいてくる。そして、今度は無事、下に降りた。やれやれだ。
 と、バスは、降車ターミナルのある『オーキャット』前を直進し、新世界を抜け、またもやおかしな動きを始めた。イヤな予感がする。さらに阿倍野橋を横目で素通り、区役所脇を南下し、地下鉄昭和町で右折、熊野街道と上町線を渡る。ここからなら実家まで歩いて10分弱だ。できれば降ろしてもらいたいが、信号のタイミングが合わない。
 バスはなおも西を指して走る。これはヤバい! このまま進み続けると、大阪南港から鑑真号に乗り込み、上海まで連れてゆかれてしまう。国内旅行のつもりで出てきたから、私はパスポートを持っていないのだ。さすがに黙っておれなくなり、最前列の空き席へ移動して叫ぶ。「一体、どこへ行くんですか!?」「ハハハ、また迷うてしもうて。さっきタクシーの運ちゃんに訊いたら、次の信号右や云うんで‥」 なんということだ。しかし、乗務員の顔から焦りの色は読み取れない。あるいはこれも、客を動揺させまいとの配慮なのか。いやいや、そうではなさそうだ。
 すでに到着予定時刻から2時間近くが過ぎている。去年は乗っ取り事件も発生している。バスターミナルでは大騒ぎになっているに違いない。と、その時、ドキリとするほどの音で乗務員のケータイが鳴った。「降りるとこ、間違うてしもて。ハハハ」 一言、二言で電話は切れた。どうやら、社風自体がノンキな会社らしい。
 となり車線を走るタクシーのナビゲーションを受けつつ、ようやく難波に到着。ホッとした顔の客が幾人か降り、次の降車地の阿倍野で「ハハハ」の声に送られ、晴れて私も自由の身となった。この後、バスはベイエリアのUSJまで行くという。果たして閉館時刻までに間に合うのか。見上げたバスの窓の、残された乗客の顔は暗い。

[註1] マツリ 
 ここで云う『マツリ』とは、ヤグラと堤燈があって、そこにお囃子が絡むアレではない。光景的には、ミニ版のウッドストックというかワイト島というか、そんな眺めだ。ヒッピーやフリーク、ビンボー旅行者、サンニャシン、反核・反原発活動家を始めとする各種市民団体、NPO、NGO、ベジタリアン、ハーレ・クリシュナの一派、マイナー系ミュージシャンとそのオッカケ、自然農法家、道売り、不良ガイジン、ヨガ行者、ニューエイジ系ピープル、失業者、オルタナティブ治療師、精神世界大好き人間、各種クラフトマンといった善き人々が人里離れた山中に集まり、数日間キャンプしながら、ライブ演奏やパネルディスカッション、各種ワーキングを行う。
 一時は、ここにも高齢化の波が押し寄せ、ジジイ(私もその一人)とババアばかりが目立った。「もっと若いモンが来るマツリにせにゃ、いかんなァ」という嘆息が、あちこちで聞かれたものだ。しかしこの数年で、彼らのジュニア世代や二十歳前後のバックパッカーが来るようになり、急速に若返りが進んでいる。私も、88年のマツリ当時は小学校3、4年生だった女の子が、今回の阿蘇に子供2人を連れて参加しているのを見て、我が目を疑った。マツリ自体、若い連中のイニシアチブで企画・運営されるようになってきた。したがって、最近の長老の嘆きも、「ワシらに相談もなく、若いモンだけでマツリを進めおって!」に変わりつつある。
 長いマツリの歴史の中でも伝説化し、その原点ともなっているのが、88年の『いのちの祭り』(通称『はちはち』)だ。名前の通り、88年8月8日午前8時8分8秒を目指し、8日間に渡って八ヶ岳山麓で開かれた。一説によると、マツリの参加者は8888人。内訳は大人5555人に子供3333人だったという。
 この記録は今も破られていない。しかし、8888人中の888人くらいはコーアン関係者ではなかったか、と私は睨んでいる。事実、「駐車場の車のナンバーが片っ端から撮影された」「『不審テントがある』との通報で実行委員が駆けつけてみると、空っぽのテントの中に、スーツ&ネクタイ姿の男が4人座っていた」「それを追い出したら、付けヒゲと長髪カツラで戻ってきた」といった類の話をあちこちで聞いた。
 ライブ会場でも、ステージの袖で客席に向けて盛んにシャッターを切っている、一見、カメラマン風の長髪男がいた。が、よく見ると、レンズが広角ではなくて望遠だ。聴衆一人一人の顔をアップで押さえていたのだろう。この時は、マツリ仕掛人のポンちゃんが、「さあみんな、隣り同士でヒゲと髪の引っ張りっこしよう!」と呼びかけ、会場は大爆笑に包まれたけれど、中にはキモを潰した者もいたに違いない。

 マツリシーズンは、この『虹の岬の祭り』で明け、夏場あちこちで開かれた後、11月の『はらっぱ祭り』で締め括られる。