コーヒー2杯目(その2)

200円

[03年12月23日]


[(その1)より続く]

 ウエストバッグには、以上の分類には含まれない小物も色々入っている。洗濯バサミ2コ、歯ブラシ、糸ようじ、綿棒、茄子の黒焼きなどだ。年配の署員に促されて開けた金属小箱の中には、自分でも忘れていたが、ミニチュアのビリケンさんが収まっていた。茄子の黒焼きは、日本古来の歯磨き粉。黒い微粉末なので、小分けしてプラスチック小袋に封入している。白い粉末でも出るのでは、と期待していたかも知れぬ彼らには、「お気の毒サマ」である。

「その洗濯バサミ‥」
連中は、小物一つにまでインネンをつける腹らしい。その用途だって、語り出せば5つや10では済まない。
「ビリケンさんはお守り。タチの悪い警官に絡まれないようにね。ご利益なかったけど」
「‥‥」
このフィギュアに対しては、さすがの彼らもツッコんではこない。しかし、3本の多機能ミニ工具には、最後まで固執した。
「やっぱり署まで同行戴けませんか」と、年長の署員。
「約束通り職質に応じたし、所持品も全部見せただろ」
「上司にも見せて、その判断が要るんですよ」
署との無線のやり取りで、「そのナイフでしょっ引け」と云うことになったのだろう。
「だったら、その人をここに呼んでよ」
「いや、いま別の仕事をしているので」

 だんだん私も疲れてきた。憤怒は闘争の最大の原動力だが、スタミナ切れでは闘志も萎える。それでなくとも、ここんところ、どうも体調が思わしくない。痛くもない腹を探られるのは『怒り心頭』だけれど、そのハラも、ここら辺で括るしかないのかな。正直、もうテキトーなところで切り上げて、ビールを呑みたくなったのだ。なるほど、冤罪の被害者がデッチ上げの供述調書に署名してしまうのも、こういう心境なんだろう。

 「30分経って戻らなかったら、神田川の底を浚ってくれ」 マスターに云い残してパトカーに乗る。不思議なことに、この車の窓を通して眺めると、見慣れた街並みが全くの別世界に映る。そして自分が、正真正銘の犯罪者になったような錯覚すら覚えるのだ。ああ、娑婆もこれで見納めか。

 2〜3分で署に到着。数年前、拾得物を届けに訪れた建物を、まさかこんな形で再訪することになるとは。正面玄関を見上げ、複雑な感慨に浸る。そのまま小部屋に通され、3コの小道具がどこかへ運ばれてゆき、その間に年配署員の取り調べを受ける。何もかも話したじゃないかと思ったが、さらに、血液型、靴のサイズなども根掘り葉掘り訊いてくる。なるほど、過去及び将来の、犯行現場に残る痕跡や遺留物との照合用なのだろう。もちろん、渡された用紙に素手で記入しているから、指紋もバッチリ取っている。

 彼は私の仕事のことをあれこれ尋ね、おもむろに、「誰かあんたの仕事や身元を説明できる人物はいないか」と切り出した。やっぱり、である。実は、あのマスターが4階から降りてきたとき、警官たちの顔がウサン臭いものを見る目付きに変わったのを、私は見逃していない。ま、ヒッピー崩れのような彼の風貌では、それも無理からぬことではあるが。それに、こちらの職業が申告通りかどうかも、まだ疑っているのだろう。

 私は、友人知人の顔をあれこれ思い浮かべてみた。そして、ネクタイ姿が最も板に付いていると思われる、一人の仕事仲間に救援を頼むことにした。市民運動の経験も豊かな彼なら、突然の電話にもウロタエたりせず、そつなくキチンと対応してくれるに違いない。電話番号を告げると、署員が一人、ナンバーをメモった紙切れを持って出て行った。

 年配の署員が、またも、仕事のことなど色々訊いてくる。どうやら彼は、「人畜無害で、ただウルサいだけのヤツを引っ張ってしまったな」と、かなり早い段階から見抜いていたフシがある。自分の名前は答えたが、最初に声を掛けてきた2人のそれは、「いや、私に免じてお願いしますよ」と明かさなかった。

 待つほどもなく、3コの小道具に続いて電話の彼が戻ってくる。そして、ザラ紙の裏に、鉛筆で大きく『OK』と書いて掲げて見せた。さすがにホッとする。残念ながら、「お〜い、カツ丼取ってやれ〜」の一声は飛ばなかったが。

 元の場所まで送る、というので1階ロビーにて待機。歩いても知れているが、それすらメンドーなほど疲れていた。約2時間半も拘束された身としては、黒塗りの署長専用車に、白バイの先導を立てて送り届けてもらいたいところだ。しかし、「ほかの車が出払ってるので」と案内されたのはミニパト。そこに押し込まれ、駅前ロータリーで解放される。

 これでとりあえずは娑婆に復帰した。その足でKLMを訪ね、無罪放免を報告。さすがにドーッと力が抜け、M嬢にコーヒーを頼んで一息つく。身元照会を受けてくれた彼にも礼を云わなくちゃ。それからビールで祝杯だ! 善は急げ。早速、休日出社中の彼に電話を入れる。

「無事でなにより」
「いやぁ、お蔭さまで助かりましたよ」
と、コトのテンマツを掻い摘んで話す。彼も最初、何事か?と驚いたという。当然だ。誰だって面食らう。それでも冷静に、私の仕事内容その他を、具体的かつ判りやすく説明してくれたらしい。状況に呑まれることなく、クールな判断を下せる彼に頼んで正解だった。放免までのあらましを語り終えると、その彼が云った。
「‥ところで、このあと空いてる?」
悪い予感がした。間違っても、生還のお祝いに一献差し上げよう、などというキャラではない。
「もしかして、仕事?」
「出張校正の手が足りないんだけどねー」
私の心の中では、依然として、ビールだ、ビールだ、ビールだ、という声がコダマしている。が、ここはもう観念するしかなかった。

 部屋に戻ってきたのは、夜中の12時過ぎ。疲労困憊し、もはやビールどころではない。我が身に降り掛かった災難を反芻する気力すら失せている。着替えもそこそこに、そのままベッドに潜り込む。

 徒労感だけを後に残し、忘れ得ぬ祝日となった一日は、こうして静かに幕を降ろしたのだった。