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昨日食べ残した粕汁を処分しようとして、またもや手が止まるする。一昼夜が経ち、ネットリ感も増しているようだ。「暖房のない部屋だから、5、6日くらいは持つだろう」との見通しは甘かった。あるいは、ナメコを入れたのが良くなかったのかも知れない。昨夕、調理から5日目にして、早くも異変が現れた。味的には、まだ完全な赤信号ではない。オレンジ混じりの『黄』といったレベルなのだが、どうもノドを通らない。湯煎・滅菌処理をしておくべきだったと悔んだものの、あとの祭りである。やむなく2、3口で箸を置く。そして「明日になれば良いチエが湧くかも」と、そのまま放り出したのだ。
手にしたポリ袋詰めの粕汁を眺めながら、私は夕べの記憶を巻き戻してみた。確かに味は耐え難かった。これを再加熱したところで、復活のメはない。しかし、汁はダメでも、まだ、具材まで害は及んでいないのではないか。腐敗はバクテリアによって起こされる。彼らは、液中では盛んに増殖するだろうが、固形物への侵入には手間取るに違いない。海で発生した生物も、陸に上がったのは遥か後世ではないか。しかも保温調理では、煮続けない分、素材の組織は比較的しっかり保たれる。渚や干潟がなく、大陸が絶壁に囲まれていたとしたら、我々は未だ海中で暮らしていたかも知れない。そう考えると、具材が、バクテリアや毒素の侵攻を凌いでいる可能性は高い。口に含んだ時のバッドな味も、汁に幻惑された結果であって、具自体はさほど傷んではいなかった気もする。
早速、粕汁を流しに持ち出し、ザルでじっくり水洗いする。そして味見。‥うむ、具材はいずれも問題ない。これなら充分再生できる。キチンと引いたダシで含め煮にしてやれば、美味しい一品に生まれ変わるに違いない。
私は知識と経験を総動員し、再生計画を練った。既に火の通った素材が相手だ。ダシ材料の組み合わせと分量、水の量、メディウムウオーターの量、加熱・再加熱のタイミングと火加減‥。それら複数のパラメータを綿密かつアバウトに設定し、実験スタート。全てのプロセスをタイマーできちんと時間管理し、35分間の保温後、様子をみる。おや、予想以上の出来映えだ。先程までバクテリアの海で浮き沈みしていたとは思えぬ、濁りのない、しかも深みのある味ではないか。オマケに、「腐敗味」とおぼしき仄かな何者かが、不思議なアクセントを与えている。
『量』はある一線を越えると『質』に転化する。それはプラス方向のみならず、マイナス方向にも、等しく起きる現象なのかも知れない。
カビ研究の第一人者、井上真由美先生は、著書『カビの常識 人間の非常識』(平凡社新書)の中で、革命的メニューを提唱しておいでだ。「サルモネラ菌入りスープ」「コレラ菌入りマヨネーズ」「結核菌とレジオネラ菌の入ったソース」「クラドスポリウム菌入りアイスクリーム」‥。胃腸のヤワな私は、ナマ菌の踊り食いは御免蒙りたい。しかし、菌の生成物によるホメオパシー的隠し味効果には、大いに関心がある。すでに従来食材に関して、人類は、かなりの順列組み合わせを試してしまったのではないか。先生の発案は健康増進の観点からなされているのだが、「ほかにはないような風味かも」とお書きの通り、味の新たな地平はここにある、と私も確信する。消化器系のタフなボランティアを募り、早急に研究を進めるべきであろう。
下らぬ想像はこのあたりで置き、急ぎ、祝杯用のビールを買いに走る。